「8月15日から始まった私の戦争」満州で孤児となった9歳 衰弱死した母、残留孤児となった弟

満州で孤児となり、日本への引き揚げ体験の語り部をしている黒田雅夫さん(京都府亀岡市)

 9歳で旧満州(現中国東北部)で孤児となり、命からがら日本に帰国した男性が京都にいる。父親は現地で召集されシベリアに抑留、母親は逃避行中に衰弱死、弟は残留孤児となった。どうやって命からがら生き延びたのか。戦後76年たち、今何を望んでいるのか。思いを聞いた。

■コーリャン畑に隠れて逃げる日々

 「終戦の8月15日の時期は、死体が転がるコーリャン畑の中を逃げていたと思う。時計もなく、ラジオもない。自分がどんな状況なのか全くわからなかった。私の戦争はこの日から始まった」

 黒田雅夫さん(84)=京都府亀岡市=は日本で終戦とされる日、満州でソ連軍に追われて逃げている最中だった。

 黒田さんは1944年6月、両親と弟の一家4人で「廟嶺(びょうれい)京都開拓団」に加わり、吉林省樺甸(かでん)県に入植した。

 入植時は夏。種まきの時期は過ぎており、その年は何も収穫できなかった。満州の人から乾燥野菜などをもらい、年を越した。黒田さんは現地の子どもと言葉を教え合ったりして、新たな地に溶け込もうとした。

 45年になり、農業ができると思った矢先の6月、父が関東軍に召集される。男手がなくなり、再び一家は食糧確保に頭を悩ませることになった。

■二の腕まで腕時計を着けていたソ連兵

 8月10日頃だろうか。「日本は負けるらしい」とのうわさが広まった。9日にソ連が満州侵攻を始めていた。開拓団は南に逃げようと、約300キロ先の遼寧省・撫順(ぶじゅん)を目指した。

 母と弟、後から来た祖父らとの逃避行。約500人が一列になり、荒野を隠れるようにして進む。「土地を奪って住んでいたので、日本人は恨みを買っていた。匪賊(ひぞく)や軍隊から襲撃や略奪も受けた」。殺されたり、病気で倒れた人が道端のそこかしこに残された。

 途中の吉林の街では機関銃を手にしたソ連兵に遭遇した。金品を狙い、寝場所としていた映画館に入ってきた。天井に向かって威嚇射撃をし、その後倒れている人たちの胸を触って、女性かどうか確かめていった。奪った腕時計だろうか、兵士は二の腕までたくさんの時計を身に着けていた。黒田さんはうずくまって死んだふりをして、なんとかやり過ごした。

■母は最期、私にご飯を全部くれた

 鉄路も使い、9月末ごろに撫順の難民収容所に入った。寒さと飢えが襲い、母と祖父は寝たきりになった。12月下旬。母は5歳の弟を現地の中国人に託した。数日して、祖父が「日本に連れて帰れなくてすまん」との言葉を残して亡くなった。

 翌46年1月のある日。母が野菜くずで夕食を作ってくれた。母は手をつけず、黒田さんにだけ食べさせた。半分残して眠ると、夜中に起こされ、すべて食べるよう促された。翌朝、母は冷たくなっていた。「いっぱい食べさせたかったのだろう」。31歳だった。

 凍った母の遺体を埋葬できず、庭に置くだけしかできなかった。それから収容所を飛び出した。「孤児は売り飛ばしたらいい」。周囲からそんな声が聞こえてきたからだ。

 日本人と分かると、何をされるか分からない。一切しゃべらず、路上にうずくまり続けた。氷点下10度以下となる撫順の冬。夜は空き家に隠れて過ごした。中国人の露天商が、黙って肉まんをくれたこともあった。「多くの人に助けられ、生きながらえた」。その後、アメリカのキリスト教会に保護され、46年6月に帰国した。

 父はシベリア抑留を経て帰国したが、一緒に暮らすことはかなわなかった。弟は残留孤児として中国で育ち、1988年に日本に戻った。ただ、日本語がうまく話せないため、兄弟だがコミュニケーションをとることは今も難しい。

■「軍人・軍属の骨は積極的に拾ってもらえるのに…」

 黒田さんには、今も心残りが二つある。一つは、中国に置いてきた母親らの遺骨。もう一つは、忘れられつつある満蒙開拓の歴史の継承だ。

 収容所には高知県の開拓団もおり、収容所で亡くなった人は、名簿などから400人ほどとみられる。遺体は建物の外に野積みされたが、後にダイナマイトで爆破され、粉々にされた骨などは土と一緒に、少し離れた池の周囲に運ばれたことが分かっている。ただ、その骨を日本に持ち帰ることは今もかなわない。
 

 「国は、南洋など軍人の遺骨は積極的に収拾しているが、国策で満州に行き、置いていかれた人たちの骨も同じようにしてほしい」と願う。京都府や政治家にも訴えたが、いい返事はもらえなかった。厚生労働省にもこれまで集めた資料や自身の体験談を送り、思いを訴えた。資料提供への感謝は述べられたが、中国の国民感情を理由に、実現は難しいとの回答だった。

 歴史継承については、慰霊碑建立を、行政に懇願している。終戦の混乱で多くの犠牲者が出たが、京都の開拓団についてまとめた公的な資料も刊行されておらず、その全容は明らかになっていない。関係者も少なくなっており、黒田さんや研究者が独力で公文書を調べるなど、資料収集や継承は個人頼みとなっている。

■来年の北京五輪に望み

 10年以上前から語り部の活動を行っており、近年は当時の体験を絵で表現し、子どもたちにも戦争をわかりやすく伝えている。

 コロナ禍で活動が制限され、満蒙開拓のことを知る人が減っていくことに危機感を覚える。「私たちは国や自治体の求めに応じて満州に行った。戦争を反省するのならば犠牲者を弔い、その歴史を忘れないためのものが必要なはずだ」と力強く話す。

 終戦から76年。黒田さんの戦争はまだ終わっていない。「命があるうちに、問題は解決しないかもしれない。でも、2022年に北京冬季五輪がある。日中友好が進み、遺骨収集も良い方向に転がるかもしれない。そこに望みを託したい」

満州からの引き揚げ体験を描いた黒田さんの絵。開拓団の拠点となる村にある学校への通学風景を描き、冬はオオカミが出没すると休みになった
ソ連軍や現地の馬賊から逃げる開拓団。夜、背の高いコーリャン畑のなかを隠れるように進んだ
黒田さんたちが入っていた撫順の難民収容所だった建物(1990年撮影、黒田さん提供)
亡くなった母親の遺体を、収容所の外に運び出す場面。片方を黒田さんが持ち、他の遺体のに積んだという。地面が凍り、埋葬はできなかった
収容所を抜け出し路上生活を始める。中国人の露天商に声を掛けられる場面
満州で亡くなった黒田さんの母親(後列右)。前列で叔父に抱えられているのが黒田さん。唯一残る母親の写真だ(1939年頃、京都市下京区で撮影)
残留孤児の弟が、満州で家族と住んでいたころの記憶を描いた図。家などの位置関係から黒田さんの弟であることが判明した

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