戦争の悲惨さ伝えたい 76年目の夏 戦中、戦後体験語る  糸魚川市須沢の伊藤喜代以さん

 戦没者、原爆死没者の冥福を祈る76年目の夏を迎えている。戦争を知らない世代が増えている現在、高齢の戦争体験者には、戦争の悲惨さ、命の大切さを伝えたい、分かってもらいたいと願う人が多くいる。糸魚川市須沢の伊藤喜代以さん(91)もその一人。広島平和記念日の8月6日以降は、仏壇に連日手を合わせ、先祖供養とともに自身の記憶、歩みと向き合っている。

学徒動員、戦争体験の記憶を振り返る伊藤さん

 伊藤(旧姓佐藤)さんは、新潟市江南区(旧横越町)の出身。終戦時は15歳、県立新津高等女学校の3年生だった。学徒動員で自宅から徒歩約30分の軍需工場に通い、親友2人と同じ職場で、ゼロ戦の部品などを作った。

 76年前の1945(昭和20)年8月15日正午、終戦を告げる玉音放送が流れた。大陸から帰還し赴任した中年男性の工場長は、約50人の女子生徒を集め「ソ連兵が30分後に攻めて来る。生き恥をさらさぬように」と伝え、2人一組で首に鉢巻きを掛け合い、その時が来れば、自決するように命じた。

 「とても言葉では言い表せない気持ちだった」と伊藤さん。号泣しながら、校歌や君が代を歌ったという。ソ連兵は夕刻まで来ず、今でいうデマだった。解散時は「完全に脱力していました」。仲良し3人組で「(死なずに生きていて)良かった」と抱き合った。この極限の出来事を、父母には伝えていない。

終戦後に生死の境を経験した伊藤さん(右)ら親友3人組。翌々年春、女学校卒業時の記念写真

 新潟には軍艦を造る大工場があり、原爆投下の恐怖にもさらされていた。「広島にピカドン(原爆)が落とされた。次は新潟か」と、うわさが広がったという。終戦後に「2回目が予想されていた8月9日は天候が悪く、長崎へ先に落とされた」と知らされ、「落とされず良かったと思う半面、自然現象とはいえ、長崎の人に申し訳ない」と思ったという。このことも長く口外しなかった。

 地主の家に生まれ、幼少期から青年期にかけて戦争状況を体験。小作だった家族が、満蒙開拓団に参加し悲惨な目に遭ったことにも胸を痛める。結婚を機に糸魚川市外波に移住。1969(昭和44)年8月9日には水害に遭い、2年間を仮設住宅で過ごした。被災者として公共放送に出演、番組を見てすぐ支援品を送ってくれたのが、親友2人をはじめ生き延びた女学校の同級生だった。

「拾った命」大切に

 心臓手術2回、がん手術3回の試練もあった伊藤さん。名医の執刀で命を助けられた。子2人、孫5人、ひ孫3人に恵まれ、現在は穏やかな日々。親友とは会うたびに「拾った命。だからこそ大切にして楽しもう」と話している。

 人生集大成の時期、コロナ禍の状況も相まって、伊藤さんは「戦争の記憶が途絶える危うさ」を感じるという。若い世代には、あらためて「命の大切さを知ってほしい」と願い、学習する場所として、特攻隊に関する資料館「知覧特攻平和会館」(鹿児島県南九州市)を紹介。「涙が止まらない。一度見ると人生を粗末にしなくなるはず」と来館を勧めた。

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