のどかな酪農地帯が広がる北海道中標津町。札幌市から東に約300キロ離れたこの地で、「ムツゴロウ」の愛称で親しまれる作家の畑正憲さん(86)は馬や犬に囲まれ穏やかに暮らしている。子どものころ、太平洋戦争中の満州(現中国東北部)で過ごし、終戦前に帰国。戦後、満州時代の友達には誰ひとりとして会えなかったという。(共同通信=大日方航)
▽「つらら」割り
―戦争の記憶は。
6歳のころ、おやじが満蒙開拓団の医師になることが決まり、当時住んでいた博多から家族で海を渡りました。満州の大連に到着後、奉天や新京を通り、トラックの荷台に揺られ、北西部の開拓団の村に着きました。粗末な土作りの豚小屋のような家以外は何にもありませんでした。
―どんな暮らしだったか。
日課は便所の「つらら割り」です。寒く、用を足すとすぐ凍るので、下から生える「つらら」を鉄の棒で壊すよう命じられていました。凍っているうちはいいのですが、溶けると臭ってくるのです。
―印象に残っている出来事は。
1年ほどがたち、小学校に上がった後のある夜、村をパルチザンが襲いました。たばこの火を標的にされた歩哨が撃たれて死に、銃撃戦が始まりました。それまで豪胆で怖いものなどないと粋がっていましたが、掘りごたつの中でぶるぶる震えました。
おやじは日本刀を背負い、猟銃とピストルを両手に持って座り、戸口をにらんでいました。うちは医師だったので、けが人や死人を見ることは日常茶飯事でした。村が襲われた翌日も、指を1本なくした人を縫合するおやじの様子をじっくり見ていました。
▽両親から聞いた惨状
―満州にいたのはいつまでか。
1945年春、兄が軍の幼年学校進学を希望し、帰国することになりました。朝鮮半島の釜山を出港する船に乗ってすぐ、船員が「敵の潜水艦が来た。甲板に上がれ」と叫びました。船上は本当に寒く、沈没の不安より、次に来る寒波をどうしのぐかだけを考えていました。
結局、船は沈まず博多湾に着きました。記憶の中では初めての日本の姿です。一面に広がる白い砂、輝く緑色の松。本当にきれいでした。私と兄を大分県の祖父母に預けると、母親は満州に戻っていきました。
―満州に残った両親のその後は。
両親は終戦後、引き揚げてきて、ソ連侵攻の時の話をしてくれました。家の戸が夜通したたかれ、ソ連兵に強姦ごうかん(ごうかん)された女性から助けを求められるたび、妊娠しないよう処置したということです。
開拓団時代、学校に60人くらい生徒がいましたが、戦後、一緒に机を並べた友達にはついに会えませんでした。ソ連兵から逃げるため、大人は穴を掘って足手まといになる子どもと病人を入れ銃殺したと聞きました。自分の子どもを撃った人もいたといいます。よくできたものです…。よほど追い詰められたんでしょう。
▽戦争は絶対駄目
―今、伝えたいことは。
戦争の悲惨さ、つまらなさ、意味のなさは身に染みています。また、実害を被るのはいつも庶民です。みんなが苦しさを辛抱し、明日に希望をつなぐというつらい経験をしてきました。戦争は絶対に駄目です。
―今の日本をどう思うか。
今の日本はバランスのとれたいい国だと思います。あまり大きなことを望まず、人権も自由も平和もある生活を守っていくだけで十分じゃないですか。
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はた・まさのり 1935年福岡市生まれ。動物関係のテレビ番組で活躍。著書に「われら動物みな兄弟」など。