『るろうに剣心』相楽左之助のモデル・原田左之助の最期は謎 墓がどこにも見当たらない

今回は、人気漫画『るろうに剣心』の登場人物である相楽左之助のモデルとなった原田左之助の話です。その原田の最期が謎に包まれていることを知っていますか。

相楽は『るろうに剣心』を彩る重要人物です。ファンにはおなじみでしょうが、怪力かつ打たれ強さが自慢の人物で、背中に「惡」と書かれた服を着て、「トリ頭」と呼ばれるほど逆毛の髪型が特徴です。巨大な斬馬刀を使い、主人公の人斬り抜刀斎こと緋村剣心に戦いを挑みますが敗北。その後は剣心の仲間となる人物です。

そのモデルこそが、有名な新撰組十番隊組長の原田左之助なのです。原田は伊予松山藩の生まれで、槍術(そうじゅつ)の免許皆伝を授かるほどの槍の名手して知られています。伊予松山藩にいたこころ、口論となり「腹を切ることも知らぬゲス野郎」とののしられたことに激高。命は取り留めたものの、腹部に一文字の傷跡が残り「死の損ね(死に損ない)の左之助」と呼ばれた人物です。一時は、あの坂本龍馬を暗殺したと目されていました。この原田の墓が日本全国のどこにも見当たらないのです。

原田は鳥羽・伏見の戦では新撰組で、その後、甲府勝沼の戦いでは新撰組から名を変えた甲陽鎮撫隊として戦いました。この甲陽鎮撫隊は御親征東山道先鋒総督軍に敗れて江戸に敗走。その後、近藤勇らと意見が衝突し、新撰組二番隊組長・永倉新八とともに、現在も江東区内にある冬木弁天堂で芳賀宜道を隊長に靖兵隊を結成しました。深川七福神として有名なこの冬木弁天堂は私の会社からも近く、しばしば前を通るおなじみの場所です。

この靖兵隊は会津藩お抱えとなり、江戸城受け渡し後、江戸を離れます。ところが、行軍が日光街道の脇街道の宿場町・山崎宿に差し掛かったところなぜか原田は江戸の戻ると言いだし、靖兵隊を離脱します。ここから原田の消息が途絶えます。

江戸で彰義隊に加わりますが、上野戦争で銃撃されて重傷を負い、1868年7月6日に29歳で息を引き取ったとされています。ところが、彰義隊の名簿に原田の名前は記載されていません。もちろん墓はありません。

ここで出てくるのが「死に損ねの左之助」らしい伝説です。新潟、下関、釜山を経て大陸に渡り馬賊になったというのです。1907年に、生まれ故郷の愛媛県松山に現れ、親戚を訪ねて回り「満州(モンゴル)で馬賊の頭目となった」と言い、満州へ戻っていったという話です。

その後の消息は明らかになっておらず、原田を忍ぶには、永倉新八が、今のJR板橋駅近く建てた近藤勇の墓所・新撰組隊士慰霊碑に名が刻まれているのみです。正面に近藤勇と土方歳三の名が掘られており、原田の名は向かって右側面の最上段右から2番目にあるということで出向きましたが、長年の風雪で削れて読み取ることができませんでした。

ちなみに『るろうに剣心』での相楽も5年かけてアメリカ。ヨーロッパ経由で、モンゴルに渡り馬賊になったとのエピソードが描かれています。まさに、原田の生涯は漫画の登場人物になるほどロマンにあふれていますね。

(デイリースポーツ・今野 良彦)

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