時代を疾走した向田邦子「父の詫び状」と市井の人びと  8月22日は、向田邦子の命日

向田邦子と聞いて思い浮かべる作品は?

今思えば、まるで彼女は自分の死期を知っているかのようだった。

脚本家・向田邦子。今日8月22日は、今から40年前の1981年―― 彼女が台湾に取材旅行中に、航空機の墜落事故でその生涯を閉じた、その日である。享年51。あまりに若く、そして劇的な幕切れだった。

向田邦子と聞いて、あなたはどの作品を思い浮かべるだろうか。

小林亜星と西城秀樹が大立ち回りを演じた『寺内貫太郎一家』?
後期・向田邦子の起点となった『冬の運動会』?
向田邦子最高傑作の呼び声高い『あ、うん』?

―― 僕は、個人的には、前期・向田邦子は『時間ですよ』第3シリーズ(TBS系)、後期は『阿修羅のごとく』(NHK)がそれぞれ最高傑作だと思う。

前期・向田邦子とは、彼女のテレビドラマの脚本デビュー作である1964年の『七人の孫』(TBS系)から1975年の『寺内貫太郎一家2』まで。後期とは、乳がんの手術から復帰した1977年の『冬の運動会』(TBS系)以降を指す。

よく『寺内~』が代表作と言われがちだが、面白さなら圧倒的に『時間ですよ』が上だと思うし、人間ドラマの滑稽さで言えば、『阿修羅~』に勝るものはない。

モデルは実の父、向田ドラマに登場する父親像

向田邦子は昭和4年、東京は世田谷の生まれである。父親は生命保険会社に勤める転勤族。幼いころから全国各地を転々とし、戦後は一家で宮城県仙台市に移り住んだ。だが、長女である邦子は実践女子専門学校(現・実践女子大)の国文科に進学したので、彼女のみ麻布の祖父母の家に下宿しながら学校に通った。そして夏・冬の休暇に入ると、仙台に帰省した。

彼女の初の随筆集『父の詫び状』には、子供時代からの一家の回想話が綴られている。父親はかなりの亭主関白。彼女の書くドラマに登場する父親のモデルの多くは、そんな実の父であると言われる。随筆の中に、こんな印象的なエピソードがある。

ある年の冬、当時、保険会社の地方支店長をしていた父が、夜更けに大勢の客人を連れて、帰宅したことがあった。こういう時、向田家は一家総出でおもてなしをしないといけない。母親は膳の支度で忙しく、長女の邦子は玄関で客人の靴についた雪を落としていた。その時、父が手洗いから出てきたので、邦子は何げに尋ねた。
「お父さん、お客さまは何人ですか」
「馬鹿。お前は何のために靴を揃えているんだ。片足のお客さまがいると思ってるのか」
一事が万事、この調子であった。

念願のテレビデビュー、森繫久彌主演ドラマ「七人の孫」

1950年、向田は学校を卒業して一般企業に就職するが、2年後、新聞の求人広告を見て、出版社の雄鷄社に転職する。ここで、映画雑誌の編集を通して芸能界への人脈を広げ、時々、アルバイトでラジオ番組の構成なども手掛けた。

1962年、既に2年前に独立してフリーライターになっていた向田は、出版社時代に知り合った俳優・森繁久彌からラジオドラマの脚本を頼まれる。かの『森繁の重役読本』である。「重役さん」と呼ばれる中年男が日常生活上の愚痴を独白するプロットだが、何を隠そう、そのモデルは向田の父親だった。同ドラマは好評を博し、これが縁で向田は森繁主演のテレビドラマ『七人の孫』(TBS系)の脚本家チームの一人に抜擢される。念願のテレビデビューである。

第3シリーズではセカンドライターに! 頭角を現した「時間ですよ」

1970年、脚本家の仕事が安定してきた向田は、南青山に転居。以後、終の住処となる。そして、ここから前期・向田邦子の大活躍が始まる。『時間ですよ』には第2シリーズから参加し、当初4人いる脚本家の末席だったが、たちまち頭角を表す。そして、続く第3シリーズではセカンドライターを務めるまでに出世する。

そう、今でも僕らが『時間ですよ』の話をするのは、大抵、この第3シリーズだ。「トリオ・ザ・銭湯」は堺正章・悠木千帆(後の樹木希林)・浅田美代子の最強メンバーとなり、久世光彦の演出は冴えわたった。健ちゃん(堺正章)に「そうだ!ウルトラマンを呼ぼう!」と叫ばせ、本当にウルトラマンを登場させた回もあった。

ちなみに、トリオ・ザ・銭湯のパートは設定だけが書かれ、3人のアドリブに任せていたという。橋田壽賀子や山田太一ら一字一句台詞を直させない脚本家がいる一方で、現場に任せた向田の柔軟さは、やがて『寺内貫太郎一家』なる彼女の代表作を生む。主人公は、三代続く石屋の頑固おやじ。短気で喧嘩っぱやいが、どことなく憎めない寺内貫太郎は言うまでもなく、彼女の父親がモデルであった。

向田邦子を襲った試練、そして随筆家としても活躍

気が付けば、一角の人気脚本家になっていた向田邦子。だが、そんな彼女に思わぬ試練が訪れる。1975年、乳がんを発症して手術を受けるも、術後の経過が思わしくなく、右腕が動かなくなったのだ。

利き腕を奪われた脚本家は、羽根を奪われた鳥に等しい。だが、そんな失意の彼女に、文藝春秋社の重鎮・車谷弘氏は、雑誌『銀座百点』への連載を打診する。ここで、向田は一世一代の賭けに出る。なんと左手で執筆するという。そして、子供時代の家族の思い出をユーモアも交えて綴ったところ――たちまち評判に。先にも記した『父の詫び状』である。

脚本家・向田邦子は、随筆家としても脚光を浴びた。そして自身の原点である家族の肖像を綴ることで、新たな創作心が芽生えつつあった。気が付けば、右手も少しずつ動くようになっていた。

向田邦子は脚本の執筆を再開した。それが、1977年の『冬の運動会』(TBS系)である。主人公の青年(根津甚八)を中心に、父(木村功)と祖父(志村喬)の男三世代のそれぞれの人間模様を表と裏から丁寧に描いた佳作。新生・向田邦子を印象付け、ここから彼女は怒涛の活躍を見せる。

NHK向田邦子シリーズ「阿修羅のごとく」スタート

それが、1979年にNHKで『向田邦子シリーズ』と題して放送されたドラマ『阿修羅のごとく』である。

ある日、厳格と思われた父に、愛人と隠し子がいることが発覚。その対策を講じるために集う四姉妹だったが、実は彼女たちも互いに秘密を抱えており、次第に内なる阿修羅が顔を見せるというストーリーだ。怖さとユーモアが入り混じった向田脚本の神髄だった。

演出は和田勉。有名なテーマ音楽は、トルコの伝統的な軍楽による「ジェッディン・デデン」。人間の心の奥に潜む “阿修羅” を連想させる、和田会心の選曲だった。

1980年、向田はこの年、頂点を迎える。まず3月にNHKで脚本を書いた『あ、うん』が放送される。昭和初期の山手の家族を舞台に、「あ・うん」の狛犬のごとく息が合う男同士の友情と秘めた思いをえぐり出した大作だった。向田邦子最高傑作とも呼ばれる。

そして7月には、短編集『思い出トランプ』収録の3篇「花の名前」、「かわうそ」、「犬小屋」で第83回直木賞を受賞。脚本家、随筆家のみならず、作家・向田邦子が認められた瞬間だった。

今、改めて乳がんの手術から復帰した後期・向田邦子の軌跡を振り返ると、1978年に刊行した初の随筆集『父の詫び状』から直木賞受賞まで、わずか2年。まさに彼女は時代を疾走していた。思えば、何か生き急いでいた気がしないでもない。

東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった「黄金の6年間」とは、1978年から1983年のことである。そして、後期・向田邦子の活躍は、それと一部重なる。

優れた脚本作家に対して与えられる『向田邦子賞』が創設されるのは、1982年である。

※2019年8月22日に掲載された記事をアップデート

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