田原俊彦「顔に書いた恋愛小説」アイドルからエンターテイナーへ第2章スタート!  2021年8月18日 田原俊彦「オリジナル・シングル・コレクション 1980-2021」リリース!

「顔に書いた恋愛小説」でキャラ変する田原俊彦

 Hey,Hey,Hey, 愛してるって
 顔に書いてあるぜ…

トシちゃんのドキリとする喝破に、私のこころの中に棲む乙女が地下セクシーアイドル「ベッド・イン」のかおりとちゃんまいばりに思わず叫んでしまう。

「ヤバい~、バレてるぅ~、セキメン~」って。

田原俊彦19枚目のシングル「顔に書いた恋愛小説(ロマンス)」、今までにない上から目線で迫ってくるトシちゃんにハートを撃ち抜かれたファンも多いのではないだろうか。

イケない大人のアバンチュールをすっかりマスターしてる風のトシちゃん、いつの間にこんなに大人になって……。

そう、この時期、田原俊彦はさり気なくキャラ変している。田原俊彦の第2章の始まりはこの曲の前後からはじまっているとわたしは断定する。

かつて“1億2千万人の弟”だった田原俊彦

デビューからしばらくの田原俊彦の歌は、年上の女性に翻弄される歌(「哀愁でいと」)か、同世代の女の子と一緒にまっすぐな恋愛を満喫する歌(「ハッとして!Good」)に大別される。

キャラクターイメージとしては “1億2千万人の弟”。飼い主を見つけた子犬のように、真っ直ぐに無邪気に恋に飛び込む。それがデビューからある時期までのトシちゃん像。

歌詞を引き抜いてみても、「首ったけ! キミに夢中! 愛しているヨ!(「ブギ浮ぎI LOVE YOU」)」とか「なんでもいいから一度お願いしたい(「原宿キッス」)」とか「スキスキGood Timing(「キミに決定!」)」とか「くちびるディープしたいよ(「シャワーな気分」)」とか「結婚したいねとその時ひらめいた(「君に薔薇薔薇…という感じ」)」とか、青春の衝動そのまま真空パックという感じで、底抜けに能天気で、キラキラしてて、スポーティーで、あの時期の田原俊彦でないと成立しないようなキラーフレーズばかり。このイメージは1983年まで続いた。

1983年はこれまでの田原俊彦の総決算。8月には、たのきん3球コンサートをもってのたのきんトリオを解散し、毎年の盆暮れの恒例だったたのきん映画も『嵐を呼ぶ男』でシリーズ終了。11月には総仕上げとばかりに「さらば‥夏」で、日本歌謡大賞を受賞した。『ザ・ベストテン』で “田原俊彦・松田聖子、噂の二人終結宣言” なんてのがあったのもこの年だ。これらをもって田原俊彦・第1章はフィナーレを迎える。明けて1984年は田原俊彦・第2章のはじまりだ。

1984年からはじまった、田原俊彦・第2章

1984年の田原俊彦はオリジナルアルバムを3枚リリースと猛ラッシュを決めつつすべてがコンセプトアルバム(『ジュリエットからの手紙』『メルヘン』『TOSHI 10R NEW YORK』)というところからして、音楽を中心に攻めるという姿勢が明確であったが、シングルにおいても「チャールストンにはまだ早い」ではダンスを魅せるために長尺の間奏を用意したり、「騎士道」では今までのルーティーンにはない意外な作家(阿久悠・つのだひろ)を起用したりと、挑戦が続いた。

そして今回取り上げる「顔に書いた恋愛小説」では、歌の中の主人公像や恋愛の風景を様変わりさせた。

この曲で田原俊彦は、童貞感あふれる溌剌として健康的な恋愛初心者から、女性をスマートにエスコートする危険な恋愛上級者へ変貌する。

 本気で愛されたことないんだろ
 素直になれよ

それは時に強引で、危険な魅力をふんだんにはらんで、田原俊彦は女性をエロティックに誘惑する。

「アハハ」とユーモアと自虐の入り混じったトシちゃん笑いする田原俊彦は、もうここにはいない。常に二枚目半だった田原俊彦の「半」がここで取れた。その時、彼はさながら “1億2千万人のジゴロ” だ。これが後の “びんびん” な田原俊彦へとつながる。

男性アイドル界の地殻変動にも芯がぶれない田原俊彦

1984年は、チェッカーズ、吉川晃司、一世風靡セピアの登場、さらには年末には風見慎吾のブレイキンへの目覚めと、男性アイドルの地殻変動の一年だった。

彼らの登場によって、田原俊彦は “旬ど真ん中” のアイドルではなくなり、ここよりしばらく、田原俊彦のレコードセールスはリリースごとに漸減していき、チャート1位からも遠のくのであるが(「顔に書いた恋愛小説」はオリコンとザ・トップテンで1位を獲得しているが、以降しばらく田原はチャートで苦戦する)、田原俊彦が1984年の3枚のシングルで見せた変化―― ①魅せるダンス
②今までにない作家を起用
③誘惑する危険な男性像
… は芯がブレることなくキープし続ける。

①の「魅せるダンス」においては、シングルなら、おきあがりこぼし型マイクスタンドを使用し、アドリブ満載のアクロバティックなアクションで魅せた「ベルエポックによろしく」を推したい。また『夜のヒットスタジオ』での縦横無尽での活躍も忘れがたい(マンスリーの「センチメンタル・ハイウェイ」がすごい!! DVDボックス、熱望!!)。

②の「今までにない作家起用」は、久保田利伸起用の「華麗なる賭け」「It's BAD」や吉田美奈子×ユーミンという意外なコンビによる「銀河の神話」あたりが有名だが、アルバム曲まで目を配らせると高橋幸宏作曲のテクノポップ「愛情現象」(『Don't disturb』収録)や大御所・服部良一の作曲に息子の服部克久がアレンジしたオールドスクールのジャズ「一秒のランデブー」(『TOSHI 10R NEW YORK』収録)など、あらゆる方向へ音楽的裾野を広げていることがわかる。このトライアルの中からブラックコンテンポラリーという次の王道を田原俊彦は見出す。

③の「危険な男性像」は、その後阿久悠の手による骨っぽい男のダンディズム(阿久悠全作詞のアルバム『男…痛い』『目で殺す』も聴き逃がせない)を経由して、セクシーでムーディーなAOR「どうする?」で完成したとみていいだろう(なお発売中止となった「僕を入れて / ときめく君の中へ」からはじまるバージョンの「どうする?」は、まさにセックス実況中継といった佇まい、トシちゃんものすごい攻め方してるな……)。

アイドルからスーパースター、エンターテイナーへステップアップ

これらの三位一体の継続によって、田原俊彦は売上やランキングチャートだけでは計れない “圧倒的なスター” のオーラを全身にまとうようになる。それはデビュー前に彼がもっとも憧れていた沢田研二の存在感に近しいものであった。

アイドルからスーパースターへ、エンターテイナーへ。田原俊彦のステップアップはこの時期に遂行されたとみていいだろう。

テレビ番組の中においても、田原俊彦は歌番組・ドラマ・バラエティーすべてをオールラウンダーにこなして常に輪の中心の大輪の華としてわたしたちの目に映るようになっていった。

そして1987年、シングルの再ブレイクを待たずに田原俊彦は雑誌『an・an』のアンケート「抱かれたい男No.1」を獲得する(以降4年連続の1位獲得)。ここまでくればあとは起爆剤を用意するだけだ。

1988年、ドラマ『教師びんびん物語』とその主題歌「抱きしめてTONIGHT」の大ヒットによって、名実ともに田原俊彦はふたたび黄金期を迎えるが、この再ブレイクは偶然の幸運によってもたらされたものではなく、彼の地道な努力と周囲の緻密な計算によって得た成果である、ということを忘れてはならない。

この1984年から1987年までの田原俊彦のチャレンジと1988年の再ブレイクは、その後のジャニーズ事務所から独立し長い低迷を過ごしたものの、みたび脚光を浴びるようになった今の彼の姿とも二重写しになる。1984年から1987年の低迷と同様に、90年代~00年代の低迷においてもたゆまぬ努力を続け、還暦を迎えた彼はいま第3の黄金期を迎えている。

田原俊彦―― こんなエンターテイナー、他には居ない。

カタリベ: まこりん

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