田原俊彦「It’s BAD」ラップとダンスを融合させた革新的シングル  2021年8月18日 田原俊彦「オリジナル・シングル・コレクション 1980-2021」リリース!

スリリングで圧巻のパフォーマンス、田原俊彦「It’s BAD」

「トシちゃんの新曲、カッコいいじゃん!」

初めて「It’s BAD」を歌う姿をテレビで観た時、強烈な印象を受けた。確か『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)だったはずだ。

ハンドマイクの空中1回転に始まり、ジャケットプレイ、ハイキック、間奏ではタップダンス、高速ターン、開脚――。跳ねたビートに乗せて、息も乱さず歌い踊る。Aメロ部分にはラップが導入されていたが、リズムに乗り遅れることなく、歌詞もはっきり聴き取れた。もちろん口パクではなく、生歌だ。観ているこちらがドキドキするほど、スリリングで圧巻のパフォーマンスだった。

ファンクをベースに打ち込みを多用した、タイトでクールなサウンド。それとは裏腹に、彼女への思いが通じないもどかしさを恋々と綴った歌詞。トシちゃんの新たな魅力を訴求した「It’s BAD」は当時、大学生だった筆者の周囲でも評判がよかった。普段は歌謡曲を下に見る洋楽通の友人が「あれはいいよね」と言っていたことも憶えている。それほど当時の邦楽では斬新な楽曲だったのだ。

筆者自身も「大ヒット間違いなし!」と確信したが、同作はオリコン、『ザ・ベストテン』(TBS系)ともに最高4位。レコードセールスは残念ながら、前作「華麗なる賭け」に及ばなかった。もちろん十分なヒットではあるのだが、時代が追いついていなかったとしか言いようがない。

いま観ても全く古くなく、寧ろ「これだけのパフォーマンスを見せる歌手はそういないだろう」と思わせてくれるトシちゃんは当時24歳。デビュー6年目で “大人の男” への脱皮を図っている最中だった。

さらば‥夏から始まった、田原俊彦の“大人化”

その “大人化” が顕著になったのは1983年の「さらば‥夏」からといえるだろう。作詞に岩谷時子、作曲にPaul AnkaとBobby Goldsboroを迎えた同作でシングル初のバラードに挑戦したトシちゃんは、その後10作連続で作詞家と作曲家を変更。ミュージカル調、スウィングジャズ、スパニッシュ、哀愁ポップ、ニューウェイブ、ラテン・ディスコなど、1作ごとに曲調と世界観を変え、それまでの「かわいい、ポップ、スウィート」な少年から「カッコいい、クール、ビター」な青年へと変身を遂げつつあった。

その歩みからは、あらゆる可能性に挑戦することで歌い手の成長を促し、ゆくゆくは一級のエンターテイナーに育てようとしていた制作サイドの強い意思と愛情が感じ取れた。なにせトシちゃんは低迷していたジャニーズ事務所を勢いづかせた中興の祖。しかも80年代ポップシーンのフロントランナーとして、道なき道を切り拓いていたのだから、その方針は当然ともいえた。

プロデューサーのジャニー喜多川やディレクターの羽島亨(キャニオン)の “攻めの姿勢” は、作家のキャスティングに最もよく表れていた。1983年のアルバム『波に消えたラブ・ストーリー』で当時新鋭の大澤誉志幸、銀色夏生を初起用した田原プロジェクトは、以後、阿久悠、橋本淳、すぎやまこういち、服部良一らの大御所を迎えてウイングを広げる一方、林哲司、玉置浩二、吉田美奈子、南佳孝、松尾清憲、呉田軽穂(ユーミン)ら、シティポップ系のソングライターも次々と投入。1985年に入ると、吉元由美、野村義男など、トシちゃんと同世代の作家も名を連ねるようになっていく。「It’s BAD」の作曲を手がけた久保田利伸もその若手作家群の1人であった。

ラップとダンスを融合させた「It’s BAD」作曲は久保田利伸

1962年生まれで、トシちゃんより2学年下の久保田はヤマハ主催のコンテスト『EastWest ’82』でベストボーカル賞を受賞し、大学卒業後にキティミュージックと専属契約。程なくして、田原の担当ディレクターだった羽島にその才能を見出される。

「これはすごい! この人が世に出る前にぜひ田原に曲を書いてもらってヒットさせたい。そうしないと他に取られてしまうと思った」
(『ヒット曲の料理人 編曲家 船山基紀の時代』より)

そう述懐する羽島は1985年7月発売のアルバム『Don’t disturb』に久保田が作曲した3曲を収録(うち1曲は羽田一郎との共作名義)。翌8月発売の「華麗なる賭け」ではシングルA面に起用した。久保田のアーティストデビューは1986年9月だから、当初の目論見通り、一気呵成に事を運んだことがよく分かる。事実、久保田を作曲家として起用したのは田原プロジェクトが初めてであった。

その羽島は続くシングルA面にも久保田を起用する。それが同年11月発売の「It’s BAD」であった。同作が革新的だったのは、それまでにないブラックコンテンポラリーなサウンドを前面に打ち出したポピュラー音楽だったこと。そして歌うトシちゃんがラップとダンスを融合させたことにあった。

時代の先端を行くエンターテイナー、お茶の間に広く浸透した日本語ラップ

日本語ラップの嚆矢については諸説あるが、ラップが一般化した1980年代以降では、ザ・ドリフターズ「ドリフの早口言葉」(1980年)が筆者の中での第1号。以後、山田邦子「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」(1981年)、吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」(1984年)… と、なぜかコミカルな歌ばかりが記憶に残る。

だが、これらはいずれも後付けの認識だ。リアルタイムでラップという手法があることを筆者が知ったのは、佐野元春のアルバム『VISITORS』(1984年)に収録された「Complication Shakedown」と「New Age」であった。佐野がニューヨークの文化や音楽に触発されて制作した同アルバムは前衛的な作風が話題を呼んで大ヒット。翌1985年には風見しんごが「BEAT ON PANIC」の一部でラップを採り入れるなど、徐々に裾野が広がっていく。

その流れを決定づけたのが「It’s BAD」で、トップアイドルが踊りながらラップを披露したことでお茶の間にも広く浸透。トシちゃん自身も「時代の先端を行くエンターテイナー」として、同性からも一目置かれる存在となる。

ちなみに久保田は1993年までに12曲をトシちゃんに提供している。これは歌手別では最多の作品数。それらの多くは今では入手困難なアルバムに収録されている。このたびリリースされた待望のオールタイムベスト『オリジナル・シングル・コレクション 1980-2021』に続いて、過去のアルバムも最新リマスターで復刻を! そしていずれはサブスク解禁を! そう願っているのは筆者だけではないだろう。

カタリベ: 濱口英樹

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