古里の歴史を掘り起こし 特攻艇の中継基地 野母崎地区の樺島 戦争の記憶 2021ナガサキ

戦争の歴史を知るきっかけになった洞窟に記者を案内する山﨑さん=長崎市野母崎樺島町

 長崎市の長崎半島南端、野母崎地区の樺島がかつて水上特攻艇の中継基地になっていた-。長崎市脇岬町の会社員、山﨑伸一郎さん(50)は、地元樺島の海岸にある“洞窟”の存在を知ったことを契機に、忘れ去られようとしている古里の戦争の歴史を掘り起こし始めた。記者も案内してもらい、洞窟や当時を知る人を訪ねた。

  ■新テーマ
 樺島の北東部の京崎から天草側に向かって、海岸の岩場を10分ほど歩くと、重なる岩や生い茂った草に隠れた洞窟の入り口にたどり着いた。奥行きは10メートルぐらいで、人工的に掘られた横穴。周辺には看板や印もなく、子どもの頃に近くで遊んでいた山﨑さんでも知らなかった場所だ。
 存在を知ったのは昨年9月。会員制交流サイト(SNS)で、洞窟が「ほとんど紹介されていない戦争遺跡」として紹介されているのをたまたま見かけた。陸上からの魚雷発射基地「射堡(しゃほ)」の跡だった。
 洞窟を調べていく中で山﨑さんは、1963年8月8日付から42回続いた本紙連載「今だから言おう 本県の戦中戦後断面史」の存在を知る。その連載の同31日付と翌日付には、樺島がマル四艇(水上特攻艇「震洋」)の中継基地だったことも記されていた。
 当時、本土決戦や米軍上陸に備えて樺島の要塞(ようさい)化が進められていたこと、樺島がマル四艇の中継基地にされたエピソード、樺島沖でマル四艇が敵機に掃射された話…。魚雷発射基地だった洞窟のほかにも、知らない事実がたくさんあった。もともと好奇心から樺島の歴史や風土を調べていた山﨑さんに、新たなテーマが加わった。

樺島の岸壁に「カケ」が連なっていたことを示す写真。水上特攻艇はカケの下に寄港した(長崎市野母崎樺島地区ふれあいセンター提供)

  ■予科練生
 山﨑さんは当時の記憶が残る人への聞き取りも始めた。これまで話を聞いたのは8人。このうち、終戦当時樺島村国民学校5年だった野母崎樺島町の男性(86)に記者も話を聞いた。
 男性によると、44年ごろ「カナザワ隊」と呼ばれた部隊、その後、海軍飛行予科練習生(予科練)の若者たちがそれぞれ20~30人島に来た。彼らは島民の家に間借りさせてもらいながら、魚雷発射基地を掘ったり砲台を設置したり。男性の家にも、昼食の時間になると、石垣島出身の予科練生2人が芋などをもらいに来ていたという。
 男性は魚雷発射基地の少し先に家の畑があったため、穴の横を毎日のように通っていた。現在は残っていないが、同基地は二つあり、魚雷を出すためのレールも敷かれていたという。
 一方、マル四艇は全長約5メートルのベニヤ板製。1人乗りで敵艦船に体当たりするために造られた。終戦半年前になると、中継基地として島に寄港するようになった。
 当時樺島は、岸壁から海面を覆うように「カケ」と呼ばれるイワシなどを干すための棚が連なっていた。男性によると、岸壁から海までカケの長さは数十メートル。マル四艇はその下にかくまわれるように寄港した。
  ■命の重み
 山﨑さんが集めた複数の証言によると、米軍機が執拗(しつよう)にカケに向かって機銃掃射していた。国民学校6年生だった女の子は、頭に弾丸が当たって亡くなったという。
 また本紙には、長崎に原爆が落とされる3日前の45年8月6日、樺島沖でマル四艇20隻が米軍機グラマンに攻撃され、17人が亡くなったと記録されている。
 「長崎で戦争といえば原爆。でも実際は、戦争のイメージがない片田舎にも爪痕が残っていた。知られていなくても亡くなった命の重みは一緒」。山﨑さんはその現場が見える海岸に記者を案内してくれた。樺島の自然の景色は昔も今も変わらないが、「時代も立場も環境も違う彼らに、どう映り、何を感じたのか」。
 何があったかを知ってこそ想像できることがある。山﨑さんは沖合を見詰め、戦争のために樺島に来た若者たちや、地元の亡くなった少女に思いをはせた。

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