河島英五「時代おくれ」魂を込めた阿久悠のスタンダードナンバー  35年前の今日 — 1986年8月27日、河島英五のシングル「時代おくれ」リリース

歌謡曲の時代とポップスの時代、その境界線は1980年

地球の地層には、6500万年前のところに「K-Pg境界」と呼ばれる幅1cmほどの線がある。その線から下が中生代で、上が新生代。

そう―― 小惑星が地球に衝突し、恐竜が絶滅したことを表す境界線だ。

音楽の世界にも、これと似たようなものがある。“1980年の境界線” だ。ざっくり言うと、70年代以前が歌謡曲の時代なのに対して、80年代以降がポップスの時代。不思議と、その境界線が1980年なのだ。

ポップスの時代とは、いわゆる “シンガーソングライター” 系の人たちが台頭した時代である。彼らは自分たちが歌うだけに飽き足らず、アイドルを始め、他の歌手たちにも積極的に楽曲を提供した。その代表格がユーミンであり、サザンの桑田佳祐だった。

一方、それ以前の歌謡曲の時代―― ヒットチャートを賑わせていたのは、“職業作詞家” や “職業作曲家” と呼ばれる人たちによる楽曲だった。作詞家と言えば、阿久悠、安井かずみ、岩谷時子、山口洋子、なかにし礼、川内康範、山上路夫、千家和也、阿木燿子らのことであり、作曲家と言えば、筒美京平、平尾昌晃、都倉俊一、森田公一、中村泰士、穂口雄右、加藤和彦、大野克夫らと同義語だった。ヒットソングは大抵、彼らの任意の組み合わせから生まれたものだった。

“キング・オブ・歌謡曲” として君臨した阿久悠

中でも、“キング・オブ・歌謡曲” として君臨したのが、作詞家の阿久悠先生だ。生涯、手掛けた作品は、実に5000曲以上。シングルの売上げ総数は、作詞家歴代2位となる6834万枚。扱うジャンルも歌謡曲を始め、アイドル、演歌、フォーク、アニメソングと幅広かった。

圧巻は、1976年から80年にかけての5年間である。レコード大賞で4度の栄冠に輝き(都はるみ「北の宿から」、沢田研二「勝手にしやがれ」、ピンク・レディー「UFO」、八代亜紀「雨の慕情」)、中でも77年は、オリコンチャートの年間53週のうち、実に39週を制した。

ところが、である。

そんなキング・オブ・歌謡曲が、80年代になると、パタリと売れなくなったのだ。先に書いたように、シンガーソングライター系の人たちが台頭し、彼ばかりか、60~70年代に栄華を極めた職業作詞家や職業作曲家の人たちも、こぞって失速してしまった。気が付けば、“歌謡曲” というジャンル自体が絶滅の危機に瀕していた。

そう、彼らは “時代おくれ” になりつつあった――。

バブル景気が始まった1986年、河島英五「時代おくれ」リリース

 目立たぬように はしゃがぬように
 似合わぬことは無理をせず
 人の心を見つめつづける
 時代おくれの男になりたい

少々前置きが長くなったが、今日8月27日は、今から35年前の1986年に河島英五の「時代おくれ」がリリースされた日に当たる。その作詞家こそ誰あろう、阿久悠だった。作曲は朋友、森田公一である。

1986年というと、バブル景気が始まった年と言われる。その年、西武ライオンズに清原が入団し、7月にドラマ『男女7人夏物語』が始まり、秋には菊池桃子が「Say Yes!」をポジティブに歌った。何となく世の中が明るい方へ向かっているのは肌感覚で分かった。

しかし―― そのタイミングで「時代おくれ」は発売されたのである。案の定、時代の波に乗れず、話題にもならず、4万枚程度のセールスに終わった。

河島英五は大阪出身のシンガーである。生まれは1952年。同年代に、さだまさしや坂本龍一、中島みゆき、浜田省吾、タケカワユキヒデらがおり―― 要するにフォーク世代だ。あの時代、猫も杓子も髪を伸ばし、ギターを買った。河島もその一人だった。

高校卒業後、彼は「ホモ・サピエンス」というバンドを経て、76年にソロデビューする。その第一弾で出したシングルが、自身の作詞作曲による「酒と泪と男と女」だった。同曲は清酒「黄桜」の CM ソングに使われるなどスマッシュヒット。いきなりのオリコンベスト10入りを果たす。

だが、その後、時代が進んで80年代の “ノンポリ(ノンポリティカル=政治運動に関心のない若者たち)の時代” を迎えるころになると、同年代のミュージシャンらは続々とポップス路線へ転向。頑なにソウル(魂)を歌に込める彼のスタイルは “時代おくれ” になりつつあった。

そして―― 運命の年、1986年を迎える。

時代おくれの堅物たち? 阿久悠×森田公一×河島英五

 一日二杯の酒を飲み
 さかなは特にこだわらず
 マイクが来たなら 微笑んで
 十八番を一つ 歌うだけ

作詞・阿久悠、作曲・森田公一。かつて70年代に活躍した職業作詞家と職業作曲家が再び組んで、文字通り “時代おくれ” の楽曲を作った。歌の主人公は控えめな男で、バブル時代に反して物静かだった。歌う河島英五も、フォーク青年がそのままオヤジになったような、時代おくれの堅物だった。

 妻には涙を見せないで  子供に愚痴をきかせずに  男の嘆きは ほろ酔いで  酒場の隅に置いて行く

だが、奇跡が起きる。

リリースから5年後の1991年6月。NHKで特番『阿久悠 歌は時代を語り続けた』が放送され、番組内で河島英五が「時代おくれ」を披露すると、NHKや所属するCBSソニー(当時)へ問い合わせの電話が殺到する。それを受け、急遽9月にシングルを再販。更に、同年12月の『第42回 NHK紅白歌合戦』への出場も決まり、第1部の白組トリで、河島はピアノを弾きながら熱唱した。

ようやく世間が追いついた、自分のことを後回しにする“真の男の生き様”

 目立たぬように はしゃがぬように  似合わぬことは無理をせず  人の心を見つめつづける  時代おくれの男になりたい

翌92年3月、経済企画庁はバブル景気が91年春には既に終焉していたと正式発表する。

人々は再び、地に足の着いた生活に戻っていた。何のことはない。「時代おくれ」が早すぎたのだ。ようやく世間が「時代おくれ」に追いついたのである。自分のことを後回しにする、真の男の生き様に気づいたのだ。

2001年4月16日、河島英五永眠。享年48。 2007年8月1日、阿久悠永眠。享年70。

そして今――「時代おくれ」は、オヤジたちのスタンダードナンバーとなった。松本人志を始め、元・朝青龍など、同曲の熱狂的ファンは多い。

みんな、時代おくれの男になりたいのだ。

※2018年8月27日に掲載された記事をアップデート

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