パレスチナ、人権活動家の死で高まる市民の怒りの矛先は? 直面している「二重苦」

反アッバス氏のデモで、亡くなったニザール・バナートさんの旗を掲げる男性=8月2日、ヨルダン川西岸ラマラ(共同)

 ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区で自治政府のアッバス議長に退陣を求めるデモが繰り返し行われた。きっかけは反体制人権活動家の男性が自治政府の治安部隊に暴力的に拘束され、その後死亡した6月の事件。「言論弾圧だ」との批判が高まり、反体制デモに発展した。イスラエル軍の占領に苦しむパレスチナ人の生活を改善できない上、今春に予定された15年ぶりの選挙も延期した自治政府。「イスラエルだけでなく、自治政府もパレスチナ人の敵だ」。汚職体質や不透明な政治に対する不満を背景に、市民の自治政府に対する怒りはかつてなく高まっている。(共同通信=平野雄吾)

 ▽17人で急襲

 死亡したのはニザール・バナートさん(43)。西岸南部ヘブロン郊外の親戚宅で6月24日午前3時15分ごろ、就寝中に襲われた。家に侵入した治安部隊は17人で、ニザールさんを鉄の棒で殴打したほか、ペッパースプレーも使用、暴行は8分間続いたとされる。

生前のニザール・バナートさん=2020年(遺族提供・共同)

ニザールさんと同じ部屋で就寝し、一部始終を目撃したいとこのフセイン・バナートさん(20)は「助けたかったが、頭に銃を突きつけられ、動けなかった」と振り返る。「ニザールは『おまえたちは誰だ!』と叫んでいたが、殴られた上、スプレーをかけられたため過呼吸になり、動かなくなった」

 ニザールさんは治安部隊に連行されたが、その後、病院で死亡が確認された。遺体を引き取った遺族が撮影した写真には、頭から足まで紫色の内出血や擦過傷の痕が無数に写っており、暴行の激しさを物語る。

 ニザールさんはインターネットでアッバス議長ら自治政府幹部らの汚職体質を非難する声明などを発表していた。自治政府を財政支援する欧州連合(EU)をも批判、EUに支援をやめるよう訴えていた。こうした行動が自治政府の目に留まり、別のいとこアマルマグディ・バナートさん(27)によれば、これまでに11回拘束されている。治安部隊は4月にもヘブロン郊外の自宅に押し入り、ニザールさんが不在だったため天井に発砲したといい、「それ以降、ニザールは毎日、自治政府関係者から『殺すぞ』と脅迫電話を受けていた」と証言した。

 ▽記者に暴行

 「アッバスは退陣しろ」「自治政府はもう要らない」。6月26日夕、自治政府の政府機関が集まる西岸ラマラ中心部。ニザールさんの死に憤った市民が集まり、抗議デモを実施した。ニザールさんのポスターを掲げ、アッバス氏の退陣を求めるデモ隊は議長府に向かい行進する。ところが、その途中でアッバス氏を支持する私服の男たちや治安部隊と衝突する事態に発展、石を投げ合い、殴り合った。木の棒を手にデモ隊を殴る私服の男たち。催涙弾を容赦なく撃つ治安部隊。中でも、特徴的だったのは取材中のジャーナリストが標的になったことだった。筆者も撮影中、一眼レフカメラを背後から私服の男に奪われそうになり、慌てて避難した。

反アッバス氏のデモ隊(奥)に対し、投石するアッバス氏支持の私服の男たち=6月26日、ヨルダン川西岸ラマラ

 「私服の男に動画撮影中のスマートフォンを奪われ、木の棒で何度もたたかれた」。被害に遭った地元記者ナジラ・ザイトゥンさん(35)はデモから4日後、取材に応じ、腕や脚の大きな青あざを見せながら振り返った。「スマホを奪って逃げた男を追うと、その男が制服の治安部隊にスマホを渡しているのを見た」と証言。私服の男たちが単なるアッバス氏支持の市民ではなく、治安部隊の要員が私服を着て市民を装っていた可能性を指摘した。ナジラさんによると、少なくとも4人の記者が負傷した。言論弾圧に反発する市民のデモを取材中の記者に対し、暴力で応じる自治政府。「特に女性記者を狙ったようだった」とナジラさんは言う。「女性の場合、暴力を受けたことで、家族から危ない仕事は辞めた方がいいという圧力がかかりやすい」

取材中に木の棒でたたかれ、左腕を負傷したナジラ・ザイトゥンさん=6月30日、ヨルダン川西岸ラマラ(共同)

 自治政府が批判的な市民を警戒するのは、長期間選挙が実施されないことが背景にある。自治政府は1月、評議会(議会)選を5月に、自治政府議長選を7月に投開票すると発表したが、4月下旬に両選挙の延期を決めた。イスラエルと帰属を争う東エルサレムで投票ができないというのが表向きの理由だが、アッバス氏率いるファタハが内部分裂し、アッバス氏支持勢力の勝算の見込みが薄れたためとみられている。評議会選は2006年以来、自治政府議長選は05年以来のため、選挙に期待を寄せた市民の失望感は大きかった。

 ▽君臨

 「アッバス氏は姿の見えない独裁者になった」。第1次インティファーダ(反イスラエル闘争)で活躍した哲学者のサリ・ヌサイバ氏は自治政府の現状をそう表現する。アッバス氏は任期満了後も10年以上、自治政府トップに君臨し、評議会が事実上活動停止の中、議長令の発出などで政策を遂行している。ヌサイバ氏は「アッバス氏が1人で決めているのか、周辺の誰かに相談しているのかさえ分からず、政策決定過程があまりにも不透明だ」と指摘した。

 反アッバス氏のデモ隊に向かっていくパレスチナ自治政府の治安部隊(手前)=6月26日、ヨルダン川西岸ラマラ(共同)

 市民の不満が高まる中で発生したのがニザールさん死亡事件だった。自治政府元閣僚で、政治評論家のガサン・ハティーブ氏は「自治政府は選挙延期の発表以降、批判的な世論に敏感になり、以前よりも抑圧的になった」とみる。

 一方で、アッバス氏を支持する勢力がまだ一定数いる上、自治政府と治安協力するイスラエルや隣国ヨルダンなどは、パレスチナで政変が発生し治安悪化につながるよりは現状維持を求めているとの見方が強い。デモ隊には有力指導者がおらず、ハティーブ氏は「短期的にはアッバス体制が崩壊することはないだろう」と予測する。

 ▽閉塞感

 中東和平交渉は、再開のめどが立たず、イスラエル軍の占領に終わりの見えないヨルダン川西岸。ユダヤ人入植地は拡大し、イスラエル軍によるパレスチナ人住宅破壊も相次ぐ。地元記者の1人は「パレスチナ人はイスラエルの占領に加え、自治政府にも抑圧され、二重苦に直面している」と話す。ニザールさん死亡事件とそれに続くデモはそんな西岸の閉塞感を浮き彫りにする。

ニザール・バナートさんのポスターを手に、アッバス氏の退陣と選挙の実施を求めるデモ隊=8月2日、ヨルダン川西岸ラマラ(共同)

 デモに積極的に参加する西岸北部ナブルス郊外の活動家マヘル・アハラスさん(50)は「自治政府には市民を弾圧するしか手段がないのだろうが、自由を抑圧する人物が指導者になるべきではない」と訴える。イスラエル軍にも自治政府の治安部隊にも何度も拘束されており、「パレスチナ人の自由や生活を破壊するという点で、イスラエルも自治政府も同じだ。アッバスを退陣させなければ、イスラエルの占領を終わらせることはできない」と語った。

 自治政府の治安部隊は8月21~22日、アハラスさんを含む複数の反体制人権活動家を一時拘束した。表現の自由を抑圧する言論弾圧が続いている。

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