過酷な引き揚げ体験を克明に 「梅ちゃんの一代記」発行 「精神的につらい旅だった」

「梅ちゃんの一代記」を手に、引き揚げ体験について「精神的につらい旅だった」と語る岩本さん=大村市

 長崎県大村市の岩本ウメノさん(88)が引き揚げ体験などの半生をまとめた「梅ちゃんの一代記」(非売品)を発行した。終戦後、現在の北朝鮮から38度線を越えて日本を目指した過酷な日々を克明につづっている。
 岩本さんは1932年生まれ。34年に父母やきょうだいと中国との国境に近い朝鮮半島北部の都市、恵山に渡った。それから終戦まで、建設請負師だった父の仕事の関係で半島内を転々としながら過ごした。
 小学校を卒業後、45年春に同半島東海岸中部の都市、元山の師範学校に入学。しかし、受けた授業は入学翌日の1時間だけで、その後は来る日も来る日も、戦闘機を隠すための擬装網作りや田植えに駆り出された。終戦が近づく頃にはソ連軍による空襲が激化し、眠れない日々が続いた。
 8月15日午後7時、いつものように夕食を済ませて寮に戻ると、先生から終戦を伝えられた。岩本さんは「今まで耐え忍んできたのは何のためだったのかと悔しさとやるせなさがこみ上げてきた。先生になるという夢が絶たれた悲しみは、例えようがない」と振り返る。
 翌日には寮を出て家族と合流し、間もなく日本への引き揚げを目指すことになった。父の同僚5所帯14人で安全な南朝鮮へ向け船に乗り込んだ。しかし夜が明けると朝鮮人の自警団が待ち受けており、ソ連軍に引き渡された。北へ向かう貨物列車に乗せられ不安が募ったが、父の機転で一家は途中の駅で下車するのに成功、それから約2カ月、野山を歩いて、38度線を目指した。
 途中、男に姉の身柄を要求されたり、母がマラリアにかかったりと度重なる危機があったが、道案内をしてくれた親切な青年との出会いもあり、38度線までなんとか無事たどり着いた。
 「畔(あぜ)を通り過ぎると小川が流れ、その上に掛かっている十メートルも満たないコンクリートの橋が境界線だったのです」(同著)
 監視するソ連軍の銃声が鳴り響く中、決死の思いで突破。それから引き揚げ船の出る釜山に向かい、約1カ月後に父母の地元である五島に帰ってきた。
 岩本さんは「今日無事であっても明日はどうなるか分からない。体はそれほどキツくなかったが、精神的につらい旅だった。師範学校の同級生の多くは日本に帰れず、大変な苦労をされたと思う」と目に涙を浮かべた。
 今回、半生を一冊にまとめたのは、昨年本紙「声」欄に引き揚げ後の思い出をつづった岩本さんの投稿が掲載され、それを見た本紙柳壇選者の井上万歩さんが執筆を勧めたのがきっかけ。引き揚げ体験のほか、岩本さんの戦後の歩みも記している。岩本さんは「これまでよく頑張って生きてきたなと思う。良い記念になった」と話した。50部印刷し、友人らに配った。

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