【インドネシア全34州の旅】#43 マルク州④ バンダ諸島㊦ オランダ進出を支えたサムライたち

文と写真・鍋山俊雄

バンダ諸島旅行3日目。この日も2日目と同じメンバー(フランス人旅行者2人+ガイド)の4人で、シュノーケリングだ。バンダネイラから今度は東へ、ハッタ島(Pulau Hatta)に向かった。

バンダ諸島の地図(現地で購入したポストカード)

インドネシア初代副大統領で「スカルノ・ハッタ空港」の名前でおなじみのハッタ(Mohammad Hatta)は、1936年から6年間、政治犯としてバンダネイラに流刑されていた。バンダネイラにはハッタの住んでいた家が残っている。そこで地元の若者に歴史を教えたり、執筆活動をしたりしていたようだ。この小さな島は、そのハッタにちなんで名付けられた。

バンダネイラを後に東へ向かう

およそ1時間ほど船を進め、ハッタ島に到着した。小さな村があり、海岸にはいくつかの小さなコテージもある。ここでの目的はシュノーケリングだ。美しい波打ち際から10メートルも行くとサンゴ礁が広がり、20メートルも行くとドロップオフになっていて、青い海の底は見えない。ドロップオフとの境目では亀が深場から登ってくるのも見え、魚の群れに溢れており、実に素晴らしい光景が広がる。このようなサンゴ礁とドロップオフが、海岸沿いにずっと続いている。ドロップオフ近辺に船を停泊させて、ダイバーの潜っているのが見えた。

ハッタ島に到着

素晴らしい海中世界。亀が泳いでいる

昼食と昼寝を挟み、午後から再びシュノーケリングをした。その後、島の中を散歩した。家の軒先での女性のおしゃべりや子供たちの遊ぶ声が聞こえる中、装飾を施した細長い船を見付けた。マルクでは「コラコラ」と呼ばれる競艇があり、島ごとに細長い船に乗ってオールで漕いでスピードを競う。船は37人乗りだ。年2回、各島対抗の競技会がバンダネイラで開かれるそうだ。

島のあちこちに花が咲き乱れる

ハッタ島のコラコラの船

バンダネイラに戻り、その日の夕食は、スピードボートが発着する港近くの「ヌサンタラ食堂」(RM Nusantara)で。ナツメグ入りの魚料理(Ikan Asam Pala)を頼んだ。ビンタンビールもあり、ナツメグの風味を楽しんだ。

夕食は港近くのレストラン街で

ナツメグの酸味が効いていて美味

翌4日目、まずは島の中を歩き回る。広場の前にはアイコンとなるネイラ旧教会(Gereja Tua Neira)。1873年に建てられ、今でも使用されている。

ネイラ旧教会

オランダ占領時代の建物が並ぶ通りには、バンダネイラ博物館がある。ここにはオランダ東インド会社(VOC)時代の調度品や絵画が飾られている。

オランダ占領時の建物がまだ多く残る街中

バンダネイラ博物館

オランダ占領時代を思わせるさまざまな展示品がある

当時の風景を描写した絵画がたくさんある

その中でも一際目を引く、凄惨な絵画があった。絵の説明には、1621年5月8日にナッソー要塞(Benteng Nassau)で、44人の地元の有力者(orang kaya)が処刑されたシーンを描いたもの、とある。初日に慰霊碑も見た「バンダ大虐殺」だ。その絵の背景にはナッソー要塞が描かれ、海にはいくつもの船が浮かんでいる。柵で囲われた中には、大きな猟銃を持ったオランダ人、広場の真ん中には、ちょんまげにふんどし姿で刀を持つ「サムライ」が6人いて、バンダ人を処刑している。足元には切り刻まれた死体、周りを取り囲むバンダ人、命乞いする家族、そして絵の右側には柱が5本立ち、その先端には処刑された人々の生首が晒されている。絵の凄惨さもさることながら、目が釘付けになったのは、この「サムライ」たちだ。明らかに日本のサムライ。それが、なぜバンダに?という疑問が頭をよぎった。

ちょんまげを結ったサムライが何人も描かれている

絵の説明に”Japanese mercenaries”(日本人の傭兵)と書かれている

この疑問が解けたのは、日本に帰国後、NHKスペシャル「戦国〜激動の世界と日本(2)」を見た時だった。オランダに残されているVOC時代の古文書を調べた番組だ。

それによると、戦国時代の日本には欧米列強が進出しようとしていた。当時の大国スペインは豊臣家を支援し、一方、新興国のオランダは徳川家を支援していた。大阪の陣で徳川方が勝利したことにより、オランダは武器貿易を通じての徳川家との関係を強化。武器の代金として、当時、世界最高品質だった銀を日本から輸出していた。これにより国力を蓄えたオランダは、東南アジアを席巻していたスペインに対する植民地争奪戦を仕掛ける。オランダ東インド会社の総督は、日本からの武器と戦士の輸出を要請し、オランダ側は、徳川家康からサムライ出国の許可を取り付けた。

香料諸島であるマルク諸島におけるスペインの権益に挑戦すべく、戦国時代に飛躍的に威力を高めた日本製の火縄銃、槍、日本刀に加えて、戦国の世が終わって活躍の場を失った日本の武士たちが「傭兵」として送り込まれて行った。マルク諸島でのオランダの勢力拡大には日本の「サムライ」たちが大きく貢献したことが、オランダの文献に残っているという。

昔、習った日本史で「オランダは長崎の出島を通じて、鎖国時代も日本と貿易関係があった」程度しか覚えていなかった私にとって、香料諸島をめぐるヨーロッパ列強の争いの中で、オランダの覇権拡大に日本のサムライが寄与していたということは全く知らなかった。今回、バンダでそのような史実を知られたことは、強く印象に残った。

博物館を出て、島の中ほどにある空港を目指した。その日は、週2往復しかない、バンダからの便が来る日だった。離島ではよくあるが、飛行機が到着する30分ぐらい前に、一度、サイレンが鳴る。空港近くの村を歩いていたらサイレンが聞こえたので、滑走路が見える所まで行ってみた。

飛行機が来ない時間、村人はここを渡って通行している

滑走路はちょうど島の真ん中、少しくびれた形の所を横切っている。よく見ると、滑走路を横断する道のあることがわかった。その道の入口から少し滑走路の敷地に入って見ると、小さな空港ビルからバイクが1台出て来て、滑走路を端から端まで走っている。着陸前の点検をしているのだろう。点検の終わったバイクが私の近くに停まったので、「ここで着陸を見ていてもいいか」と聞くと快く承諾してくれた。しばらく待っていると再びサイレンが鳴り、遠くから、小型飛行機が滑らかに着陸して来た。

スシ・エアのセスナ機がアンボンから到着

この滑走路の長さだと、ウイングズ航空などのプロペラ機では距離が足りないだろう。着陸した飛行機は、空港ビルで数人の乗客を降ろした後、15分ぐらいしてから、また離陸して行った。

再び島の南部に戻り、ホテル「チル・ビンタン・エステート」(Cliu Bintang Estate)横にあるナッソー要塞(Benteng Nassau)を見学した。先ほどの絵の中に出て来た要塞だ。修復中の城壁の中に入ると、だだっ広い静かな空間があるだけだ。しかし、先ほどの絵を見ただけに、何もない空間が逆にいろいろ語りかけてくるような気がした。

修復工事中だったナッソー要塞

午後3時から、向かいのバンダ・ブサル(Banda Besar)島に向かう「スパイスツアー」に参加した。参加者10人ほどがホテルに集合し、ボートでバンダ・ブサル島に渡った。

山の中のナツメグ林で、地元の人がナツメグの穫り方を見せてくれた。竹の棒の先に菱形の竹片が取り付けられており、それでナツメグの実を包むようにしてもぐ。竹で編まれたかごで実を受けるという方法で、実に傷を付けることなく収穫できる。

ナツメグを収穫する道具

ナツメグの収穫

ナツメグを割ってみる。赤いメース(仮種皮)に黒っぽい種が包まれている

ナツメグ林の周りには大木もそびえている

その後、海がよく見える、海抜100メートルほどの高台にある「ホランディア要塞」(Benteng Holandia)を見学した。高い石垣の壁が残されているだけだ。1624年に建造された四角形をした要塞で、眼下の村と船舶の航行の監視のために使われていた。

ホランディア要塞

ホランディア要塞のある高台からはバンダネイラに向かう船がよく見える

実は、バンダに行ってから知ったのだが、私が行ったこの時、10年に1度の「チュチ・パリギ」(Cuci Parigi)という儀式が行われるタイミングだった。これに参加するために、島外に住んでいるバンダ人もほぼ全員が帰省して来ると言われるほどの重要な儀式だという。

チュチ・パリギのお知らせ

メインの儀式は、バンダ・ブサル島にある特別な2つの井戸で行われる。この井戸は海抜約300メートルの高さにあり、深さは5メートルもないのに海水の混じらない真水が湧く、不思議な井戸なのだそうだ。

昔、この地にイスラムを広めた聖職者が、祈りの前に手足を清める水を探していると、水源に導くようにして茂みから突然に猫が現れ、そこに、この不思議な井戸があった、と言い伝えられている。この井戸に、大きな長い布を入れて井戸を洗う儀式が、私が行ったちょうど翌日に行われる予定だった。その儀式の前後には、バンダネイラとバンダ・ブサル島で、いろいろな行事が行われる。この日は若者たちの舞踊を見ることができた。その後、燃えるような夕焼けを見ながら、バンダネイラに戻った。

島の中ではチュチ・パリギを祝うさまざまな行事が行われていた

美しい夕焼け

その夜に突然、ホテルのオーナーから驚愕の連絡があった。翌日のアンボン行きのフェリーがキャンセルになり、1日、延びたというのだ。すでに、元々は午前9時発の便が午後1時発に変更になってしまっており、同日午後8時過ぎのジャカルタ行きの便に間に合うかヤキモキしていたのだが、さらにその翌日の午前9時発へ変更になってしまった。
翌朝、念のためにフェリー乗り場に行ってみたが、延期告知の張り紙が1枚、あっさりと貼ってあっただけだった。

出発予定日のスピードボートは翌日発に変更とのお知らせ

仕方がないので会社に連絡して、1日、休みを追加した。アンボンからの帰路便も1日後の便に変更した。泊まっていたゲストハウスは延泊できなかったのだが、近所のホテルへ移動した。一連の手続きを終わらせた後、港周辺のカフェへ行ってみたものの、島民は軒並み、バンダ・ブサル島の行事に出かけているようで、多くの店は休業していた。仕方がないので、海の見える公園へ行き、「スパイス諸島」の本を読んでいると、目の前の海をコラコラの船が通り過ぎて行った。

海を望む公園の木陰でひとやすみ

コラコラの船

夜はまた、港近くの同じ食堂へ行き、バンダ諸島での名物メニューとして薦められたアーモンドソースの魚料理(aru aru Ikan)とビンタンビールで、バンダ最後の夜を楽しんだ。ほろ酔い気分で、海岸公園で行われていた行事の閉会式をちょっとのぞき、宿に戻って就寝した。

バンダの魚のアーモンドソース和え。ごはんによく合う

6日目の朝、早めに港に行き、お世話になったオーナーに別れを告げた後、果たして20分遅れとなった9時22分にスピードボートはバンダを出発した。島を離れてすぐに、並走するイルカの群れを見ることができた。

無事に帰る船がスタンバイしていた

バンダの港での特産お土産。手前に積み上がっているのは干しナツメグ

イルカが見えた

アンボンには午後3時過ぎに到着。ジャカルタ行きの便は午後8時発でまだ時間があるので、アンボンでの車を手配してくれたおじさんに、アンボンの空港近辺の観光地である船石(Batu Kapal)に案内してもらった。その後、空港近くのおじさんの家で、焼き魚をご馳走になった。「アンボン観光にまたおいで」と言われながら空港に送ってもらい、バティック航空の直行便でジャカルタに無事、帰ることができた。

アンボン島で立ち寄った船石

バンダ諸島は事前に期待した通り、香料諸島の歴史と美しい海、芳しいナツメグのジュースと地元料理、そして穏やかな島の人々とのふれあいを堪能できる、素晴らしい場所だった。今度はいつか、ダイビングでこの島を再訪したい。

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