酒には魔物が潜んでいる
バーの灯りは心の中に点る。――中島らも氏は「今夜、すべてのバーで」（講談社文庫）で、飲んだ瞬間を「胃の腑と食道に、ポッと灯が点る」と記した。山口瞳氏の分身である江分利満氏は、退社時間前になると飲み友を探し、気がつくと新しい仲間と飲んでいた。だがよく覚えていない。「お約束した原稿の依頼を……」と編集者が現れても誰だか分からない。「チョイと一杯のつもりで飲んでぇ～♪」と歌う植木等ではないが、分かっていてもやめられない酒には魔物が潜む。
酒にまつわる失敗談は尽きない。百薬の長とも言われるが、禍の元でもある。サイドブレーキを引いたまま車を走らせられないように、セーブしながら飲むのは難しい。だから失態だらけ。飲まなきゃ良かったと思ったことは数知れず。今夜は適度に切り上げて明日に備える。常識人としては当然だ。いつもそう思う。だが、できない。酒には八岐大蛇を泥酔させてしまう魔物が棲んでいるのだから。
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等身大を貫く名優、マッツ・ミケルセン
マッツ・ミケルセンが、演技者としての新境地を拓いた『偽りなき者』（2012年）のトマス・ヴィンターベア監督と再びタッグを組んだ『アナザーラウンド』は、酒がもたらす功罪を通して、未来を見つめる作品だ。
こんなマッツ観たことない。等身大に徹して、飲みまくる酔っ払いをアルコール摂取ゼロで熱演している。
その役柄は、夜勤が多い妻アニカ（マリア・ボネヴィー）とはすれ違い続きで、ふたりの息子にもほぼスルーされている歴史教師。授業もそぞろで、どこまで教えたか忘れることもしばしば。退屈で効率の悪い授業に生徒とPTAからは大クレーム。このままじゃいけない。そのことを一番よく理解しているのは悩める男、マーティン自身だ。
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血中アルコール度数0.05％で生活したら、人はどう変わるのか!?
仲間の誕生日に4人の同僚が集まる。彼らは同じ学校に務める教師たち。おすすめの酒がいかに素晴らしいかを朗々と語る給仕が手際よくグラスを満たす。その絶妙な案内で“絶品”に格上げされた酒を見つめる3人の瞳が輝く。
本当に飲まないのか？ と問われ、家族に早く帰ると言い残し、運転するからと炭酸水で我慢していたマーティンはしばし逡巡する。ひとときの“間”が“魔”に変わる。ため息をつくと、手にしたグラスをグイッと飲み干す。食道から胃へと流れる酒で全身が熱を帯びてくる。空になったグラスに酒が注がれ、当然のようにもう一杯。
心のバーに灯が点ると、もう止まらない。高揚感に包まれて会話が弾む。やがて仲間から爆弾発言が飛び出す。「血中アルコール度数0.05％で生活したら、どうなるのか」を実際に試してみないか？ 俺たちの検証を論文にまとめよう――。
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酒の効果は絶大、仕事も私生活もすべて快調！
適度な酒量（血中アルコール度数）が保たれることによって、人は自信を取り戻すという哲学者の言葉は本当なのか。マーティンはアルコールチェッカーを手にすると、さっそく検証を始める。
教室では、これまで抑えていた大胆な授業で生徒たちの心を掴む。快調な彼の検証を知った仲間たちも参戦、高揚感に包まれて成果を実感していく。漲る自信と妻との会話を取り戻したマーティンは、キャンプ旅行で8年振りに妻と肌を合わせることに！
こうなったら進むしかない。彼らはアルコール度数を上げて、更なる高みを目指す。日本の酒気帯び運転の基準値は0.03％、その4倍となる限界突破の0.12％へ。アクセルを踏み込んだ4人のアルコール度数は、一気にレッドゾーンへと突入していく。酒という名の魔物が覚醒の時を待ち構えていることも知らずに……。
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「なんとかしたい」と願うすべての人に捧げられた映画
16歳から酒の購入が認められ、飲酒に対する年齢制限がないデンマークでは、挨拶代わりに酒が酌み交わされて、顔が赤くならない体質の人が多いらしい。血中アルコール度数0.05％は、ワインならグラスに1〜2杯程度。それだけで毎日が劇的に変わるとしたら、こんな素敵なことはない。でも、すべてがトントン拍子に進むはずもない。絶妙なタイミングでインサートされる世界のリーダーたちの酩酊ぶりには絶句するしかない。
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この映画は、今よりもほんの少しだけ明るい未来を願うすべての人に捧げられている。マーティンも、共に検証に挑む3人の同僚たちも、すれ違う毎日が続く最愛の妻も、検証の対象となる生徒も、誰もが複雑な現実を抱え、時に持て余し、心のどこかで「なんとかしたい」と願っている。だが、人生が一筋縄ではいかないように、一夜の酒も紆余曲折を繰り返す。
マーティンには、酒を断ってもいい3つのシーンが用意されている。その時、彼はどんな選択をするのか、とくと見届けていただきたい。目の前の盃を手にして、心のバーに灯りを点すのか。それを決めるのはあなた自身だから。
文：髙橋直樹
『アナザーラウンド』は2021年9月3日（金）より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイントほか全国公開
