希望と絶望抱え…世界一若い国が独立10年 最貧のアフリカ南スーダン

7月9日、南スーダン・ジュバの広場で国旗を掲げ独立記念日を祝う人たち(共同)

 東京五輪の開幕が間近に迫った7月上旬、世界196カ国のうち一番若い国が独立10年を祝った。アフリカ東部に位置する南スーダンだ。多くの犠牲を経て2011年に始まった新国家の歩みは決して順調とは言えない。国連開発計画(UNDP)が昨年12月に発表した国民生活の豊かさを示す「人間開発指数」の世界ランキングでは下から4番目だった。最貧国を抜け出せないまま訪れた「次の10年」。人々の思いには希望と絶望が入り交じっている。(共同通信=菊池太典)

 ▽血塗られた歴史

 「平和の中で独立10年を迎えられたことをうれしく思う」。独立記念日の7月9日、首都ジュバの大統領府でサルバ・キール大統領はこう演説し、国家の安定を強調した。演説の直前には記念日を祝うショートマラソン大会がジュバ市内で開かれ、リアク・マシャール第1副大統領が「過去の不幸を忘れて国家の新しい章を開こう」と観覧席から訴えた。集まった数千人の市民から歓声が沸き上がり、会場は大興奮だ。

南スーダン・ジュバの大統領府で、記者団に手を振るキール大統領=7月9日(共同)
ショートマラソン大会の発着会場で談笑するマシャール第1副大統領(前列左から2人目)=7月9日、ジュバ(共同)

 政府首脳2人の前向きな発言の背景には血塗られた歴史がある。南スーダンは05年まで20年以上続いた内戦を経て、11年にスーダンから独立した。当初は豊富な地下資源を活用した経済発展が期待されたが、政権内でキール氏とマシャール氏が対立し、両氏の出身民族を巻き込んで13年12月に再び内戦に突入。18年9月の和平協定締結までに約40万人が犠牲になったとされる。

 20年2月、共同で権力を握る現政府が発足し、両陣営は元のさやに収まった。民主的な選挙を23年までに実施することを目指しているとされ、権力闘争は表面上、一時休戦となっている。

 ただ不穏な空気は晴れない。キール氏とマシャール氏が独立記念日を公の場で共に祝うことはとうとうなかった。今年8月に入ると、マシャール陣営内の分裂が表面化。反マシャールに転じた勢力は同氏を指導者から「解任した」と主張した。対立する勢力間では激しい戦闘が起きたとみられ、ロイター通信は何十人もの死者が出た可能性を伝えた。次の10年の始まりには、早くも暗雲が垂れ込めている。

 ▽悲しみ抱えた難民生活

 独立後の内戦では多くの人々が南スーダンから逃れ、今も220万人以上が国外で暮らしている。多くは祖国での悲しい思い出を抱えたまま、経済的にも苦しい日々が続く。隣国エチオピアの首都アディスアベバで出会ったジョックさん(29)=フルネーム非公表=もそんな中の一人だった。

エチオピア・アディスアベバの路上に立つ、南スーダン難民のジョックさん=6月20日(中野智明氏撮影・共同)

 「おれの生活を見てみろよ。独立10年に何の意味がある」。7月9日の独立記念日が近づいてきた6月後半、自宅がある貧困地区の薄暗いカフェの片隅で聞いたジョックさんのつぶやきにはあざけりと怒りが込められていた。

 11年の南スーダン独立時は学生だった。首都ジュバ郊外で両親や兄弟との9人で暮らし、スーダンからの分離闘争を経ての祖国誕生は「まさに喜びだった」。原油などアフリカ諸国有数の豊富な地下資源が、明るい未来を約束しているかのように感じたという。

 だが現実は違った。政権内の主導権争いが激化。ジョックさんの民族はマシャール氏と同じヌエル人で、キール氏が属するディンカ人との間で緊張が高まった。

 悲劇が起きたのは13年12月の夜。近所の人と夕食を囲んでいると背後から銃声が響き、目の前で3人が倒れた。「ディンカだ!」。当時9歳だった弟の手を引いて一目散に闇の中を逃げた。その日以来、他の家族の行方は分からない。

 逃げた方向が同じだった約50人で一緒にコンゴ(旧ザイール)国境を目指した。森林をさまよう決死の逃避行。「動けなくなった人は置いていった。仕方なかったんだ」。7日後にコンゴの名も知らない町にたどり着いた時には、仲間は20人ほどになっていた。

 コンゴで国連機関の保護を受け、難民として弟と共にエチオピアに受け入れられた。「安全だが仕事はない」。わずかな公的補助を頼りに、同じ境遇の南スーダン人同士で寄り添い合って生きている。最近、難民仲間の女性(21)と結婚したが、生活力がなく同居はできない。

 「もちろんいつかは彼女と暮らしたい。仕事があるなら、どこの国にだって行くさ。おれから全てを奪った南スーダン以外なら…」

 ▽国歌への思いもう一度

 ジョックさんのように祖国への絶望を隠さない人がいれば、国内にはその行く末に希望を見いだそうとする人々もいる。国歌の誕生を支えたジュバ大学コーラス隊メンバーら、当時の学生たちだ。この10年への思いを聞きたくて、独立記念日2日前の夜、既に社会人となった彼らにジュバ市内のレストランでささやかな“同窓会”を開いてもらった。

 「新しい国の始まりに貢献できたわけだから、それは光栄な気持ちでいっぱいだったよ」。ITエンジニアのエベネザ・ゴレさん(32)は卓上のスープを口に運びつつ懐かしげに語った。

独立当時の国歌の思い出を語り合うジュバ大学元コーラス隊のゴレさん(左から2人目)とコスタさん(中央)=7月7日、ジュバ(共同)

 分離独立の道筋が見えた10年ごろ、南部スーダン自治政府(当時)のリーダーたちは新しい国歌の歌詞を定め、旋律は複数の音楽家に作曲を打診し選ぶことにした。ある作曲家グループがジュバ大学のゴレさんら約30人に歌唱を依頼し、同年秋のコンテストで歌ったものが採用された。

 その後、歌詞の一部改訂を経て生まれたのが今の国歌「南スーダン万歳!」だ。聴いてみると、国歌一般に抱いていた荘厳なイメージは裏切られ、軽快な響きが印象に残る。

 「近隣国で流行していた音楽のコード進行やリズムを取り入れたんだ。これからの国なんだから重たい感じはふさわしくないと思ってね」。作曲補助と編曲を担当した音楽プロデューサーのエイブラハム・コスタさん(32)は振り返る。生まれてくる祖国を待ち受けているはずの幸福な未来への願いを明るい調子に託したという。

「南スーダンの国歌」
https://www.youtube.com/watch?v=mBSV51DS9JA

 コーラス隊は小中学校を訪れ国歌の普及に努めた。11年7月9日の独立の日にはジュバ中心部の祝賀会場で、300人を超える大編成を組み、高らかに歌った。

 政権内の主導権争いの末に内戦が始まり、夢は色あせた。ゴレさんらは「内戦時のことは思い出したくない」と口が重い。明るい将来を信じて共に歌った仲間の中には、命を落としたり国外へ逃れたりした人もいた。国歌の普及活動も頓挫した。「国歌を少しでも歌える国民なんて今はほとんどいないだろうね」。元コーラス隊で、コスタさんと音楽活動を続けるジョン・ボスコさん(34)が浮かべた笑みは自嘲気味だった。

 政情不安の続く南スーダン。だが内戦は18年に一応の終結をみた。彼らにとってはわずかな光が差し込む中での建国10年。「また独立時と同じ気持ちで国歌と向き合いたい」。この日の会合ではこんな言葉も聞こえてきた。

 「平和と調和の中でわれらに団結をもたらしたまえ」―。あのころ力いっぱいに歌った歌詞の願いはまだかなっていない。それでも元コーラス隊の気持ちは同じだ。「次の10年でこそきっとかなうはず。いつか平和な世の中で、この歌が歌い継がれるようになってほしい」

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