「チャレンジ精神」未来開く

シッティングバレー・竹井選手

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竹井幸智恵選手が競技を始めるきっかけになった講習会のチラシを見る母の粟野祐子さん=山形市長谷堂

 シッティングバレーボール女子の竹井幸智恵選手(32)=アシックス・山形市出身=にとって3度目のパラリンピックが終わった。右脚に障害がある彼女は、小さい頃から「チャレンジ精神」で道を切り開いてきた。長女が生まれ、母親として臨んだ今大会は、精神面でも成長した姿を見せた。

 竹井選手は生まれた時から右脚の太もも部分が短かった。医師から「歩けないかもしれない」とさえ言われたが、すくすくと成長。幼稚園の頃は、義足で家の塀に上ってジャンプしたり、兄と木登りをしたりと活発に遊んだ。

 年長時には水泳に通い、記録会では同級生たちと泳いで断トツのトップだった。好奇心が旺盛で、小学生の時は卓球、ピアノ、片足でのスキーやスケートにも挑戦した。母親の粟野祐子さん(55)は「何でもやってみることが大切。同時に『いつでもやめていいんだよ』とも伝えていた」。

 山形九中時代は水泳に加え、部活のバレーボールに熱中した。義足を着けてプレーし、ポジションはセッター。「私の所にボールを集めて」と声を掛けるリーダー気質だった。山形北高ではバスケットボール部のマネジャーになった。でもプレーする楽しさを忘れられず、障害者を対象にしたチェリースイマーズクラブで水泳を再開した。中学3年から2年続けて日本身体障害者水泳選手権で優勝した。

 シッティングバレーボールの存在を知ったのは高校2年の夏。知人の勧めで、山形市で開かれた講習会に参加した。竹井選手のプレーが日本パラバレーボール協会(当時の日本シッティングバレーボール協会)会長で、現女子日本代表監督の真野嘉久氏の目に止まった。「ぜひ一緒にプレーしてほしい」。熱烈な誘いを受け、東京や大阪に遠征する日々が始まった。

 絵や物作りが好きで東北芸術工科大に進学した。遠征費用を賄うため、学業の傍ら、洋菓子店やコンビニでアルバイトをした。海外遠征もあり、父母は「幸智恵がやりたいなら」と夜勤を増やすなどして支えた。努力は実を結び、2008年の北京パラリンピックで日本代表入り。12年のロンドン大会にも出場した。

 現在は結婚して兵庫県で暮らす。妊娠を機に一時は第一線を離れたが、再び競技に戻った。3歳の長女の育児に加え、仕事と練習の両立に奮闘する日々だ。祐子さんは今大会の戦いぶりを見届け「試合後の表情が独身の頃と違った。負けても引きずらず、てきぱきと話していた」。たくましくなった娘に目を細めた。