【動画】橋物語・眼鏡橋(諫早) 重要文化財に指定された石造りアーチ橋

重要文化財に指定された眼鏡橋(諫早市)

 「いさはやのめがねばし、いきもどりすれば、おもしろかなり」。かつて子どもたちの数え歌にも歌われ、長崎県諫早市のシンボルとして親しまれる「眼鏡橋」。全国で初めて国の重要文化財に指定された石造りアーチ橋だ。
 同市を流れる本明川は「暴れ川」と称された。江戸時代、洪水のたびに橋が流されて飛び石しか残らず、堅固な橋の建設は領民の悲願だった。諫早家の家臣は当時秘伝とされた、水害に強いアーチ橋の設計を長崎で習得。僧侶らは托鉢[たくはつ]で費用を捻出し、領民らは労力で奉仕した。官民一丸となった大事業。1839(天保10)年8月、「永久に流されないように」との願いが込められた橋が完成した。
 その実力は、1957(昭和32)年の諫早大水害で証明された。長さ約15センチの鉄でそれぞれの石をつなぎ、手すりや高欄は、神社仏閣の柱などに使われる「継手」と呼ばれる技法で複雑な穴を彫って組み合わせられた。橋の流出を防いだのは、幾多の風水害を乗り越えてきた諫早石工の執念ともいえる技だった。
 周辺のコンクリート橋が次々と押し流される中、流水や流木の衝突にも耐えたが、逆に「流木をせき止めたため被害を広げた」として恨まれる対象になったのは皮肉な結果だった。
 このため、一時は橋を爆破撤去する方針が決まったが、文化的価値の高い橋を何とか残したいと、当時の野村儀平市長が世論を押し切って国に働き掛けた。国の重要文化財に指定され予算が付いたことで、諫早公園への移築保存が決定。「命」をつないだ。
 当時、石橋の移築は難事業だった。重要文化財であるため、石を傷つけてもいけない。ここでも、地元の石工組合が5分の1サイズの模型を制作し協力。1ミリ単位で石を削る細密な作業は職人を苦労させたが、模型で得られた実験データを元に移築工事は無事成功。模型は現在、移築された橋の近くで親子眼鏡橋として親しまれている。
 子どもの頃、本明川に架かる眼鏡橋の下で泳ぎ、エビを釣って遊んだという市自治会連合会の古賀文朗会長は、大水害で自宅2階の高さまで水が迫り、恐怖の一夜を過ごした。「災いを広げた橋ではあるが、これほど立派な橋はどこにもない。造った人々の心意気を伝える文化財としても、また災害の教訓を伝える場としても、後世にしっかり残していかなければ」。そう言って橋を見詰めた。

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