“FA送り人”西武・栗山巧が楽天・牧田から2000安打達成 移籍に寄り添った炭谷、岸らの前で金字塔

同期の主砲・中村(左)から花束を受け取った西武・栗山

「ミスター・ライオンズ」西武・栗山巧外野手(38)が4日の楽天戦(楽天生命)でライオンズ生え抜き初の2000安打を達成した。

元西武の同僚・牧田和久投手(36)の95キロカーブを左前打とし、節目の記録に到達した栗山は「イメージしていたのは、岸君の代名詞のカーブをレフト前に打とうと思っていた。牧田も(代名詞は)カーブなんで、カーブを記念になるようにホームランにしようと思っていたらレフト前に打っていた」と笑みを浮かべた。

続けて「バッティングというのは思うようにいかへんなと。結果的に(二軍時代に)ずっと練習してきた逆方向にいいヒットが打てたというのは(習得した技術が)身についていたことを実感できてうれしく思う」と節目の一打を振り返った。

そんな栗山は2001年のドラフト4巡目で西武に入団。以来20年間、ライオンズ一筋のフランチャイズプレーヤーとしてチームを支えてきた。

13年に国内FA権、14年に海外FA権を取得したものの、権利行使はせずチームに残留。16年には海外FA権を行使した上で「長くプレーをすることができているからこそ、この権利をまた取得できたと思いますし、それはプロ野球選手として光栄なこと。来年以降もこのユニホームをまとい、ファンの皆さんに喜んでいただけるよう頑張っていきたい」と〝生涯西武〟を誓った。

2度目のFA権取得となった昨オフには「これからも埼玉西武ライオンズというチームで勝ち続けていきたいですし、ライオンズファンの皆さんの声援を受けて1本1本ヒットを積み重ねていきたいという気持ちでいます」と2000本への思いに重ね、変わらぬ西武愛を語っていた。

12球団最多19人のFA流出者を出してきた西武にあって、同期の中村剛也内野手(38)と同様に強い〝ライオンズ愛〟を貫く栗山。その存在は、主力流出の度に喪失感を味わってきたファンの心を癒やす拠り所となってきた。

栗山はFAに関する自身のスタンスを「他球団の評価を聞きたい? 僕はその辺が分からないんですよね。そういうのがなかった。僕がそれなりの選手だったら、そういう気持ちも芽生えたかもしれないですけど、全然思っていなかった。本当にこれはタイミングかもしれない。僕は振り返っても出るタイミングがなかった。年度別にずっと振り返ってみても『ここやったな』と思うところがなかった」とかねて語っていた。

一方で、初めて自身よりも年下の浅村、炭谷がFAで楽天、巨人へと移籍した18年オフには「先輩(の移籍)とかは特に何も思わなかったですけど、後輩のこういうの(退団)を見ると寂しい。特に野手の後輩が自ら望んで出て行く形は初めてなので…」とショックを隠さなかった。

両者に対する最後のやりとりを「お互いに何も言ってないです。『頑張れよ』まで。それ以上言ったら寂しい気持ちになるし、涙出ちゃうじゃないですか」と明かしながらこうも続けていた。

「そこはケジメをつけるところではないのかなと。だから大人なんですよ、アイツらは。気持ちのどこかで折り合いをつけて…。ボクは出たことがないから。だから頼もしく感じる部分もあるし、寂しいと思う気持ちもある。でも、それがプロ野球の世界なんですよね」

振り返ると、常にFA移籍選手を見送り、残された者の寂しさを噛みしめてきたプロ20年間でもあった。その中にはFA権行使に関する相談に乗りながら「そこは自分の意見を言うところではない」と本人の最終決断には介入せず、袂を分けてきた選手もいた。そして、そのやるせなさを振り払うように、ただ黙々とドラフトという縁だけで結ばれた西武ライオンズにプロ野球人生の全てをささげてきた。

まぶしいスポットライトを浴びることは多くなかったが、どんな状況でも置かれた場所で常に全力を尽くし、積み重ねてきたチームへの貢献が2000安打という形でこの日結実した。そこには、常に「ライオンズ一筋」の信念を貫くチームプレーヤーでありながら、出て行った人間の葛藤にも寄り添い、その決断を尊重してきた栗山巧の生きざまが写し出されていた。

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