珍しい野手から投手のコンバート 過去には“松井キラー”やイチロー同期の三塁手も

日本ハム・姫野優也【写真:石川加奈子】

現役ではオリックスの5年目、張奕がコンバート経験者

日本ハムの6年目・姫野優也投手が7日、2軍・巨人戦で衝撃の154キロデビューを飾った。今季外野手から投手に転向し、初めて立った実戦マウンドで剛球を見せつけた。プロ入り後、投手が野手に転向する例は数多い。現役でも糸井嘉男(阪神)、雄平(ヤクルト)らはプロで数シーズン、投手としてプレーしている。ただ逆は希少価値だ。プロ入り後に、野手から投手へという道を歩いた選手を振り返ってみたい。

現役ではオリックスの張奕(ちょう・やく)投手が挙げられる。2017年、育成ドラフト1位で日本経済大から外野手として入団したものの、1年目は2軍戦で打率.091に終わった。2年目の途中に投手としてプレーし始め、2019年からは登録も投手に変更になった。

同年5月1日に支配下選手登録されると、同16日のロッテ戦で1軍デビュー、8月8日の日本ハム戦(旭川)では初先発初勝利を飾った。150キロ超えの速球を武器にするが、今季は8試合で1敗3ホールド、防御率13.50と苦しんでいる。

さらに時をさかのぼれば、一時は投打二刀流でプレーした嘉勢敏弘(元オリックス)の名が挙がる。北陽高(大阪)からドラフト1位で1995年に入団、高校時代はエース兼4番打者だったが、プロではまず外野手としてプレーした。

2年目の1996年に1軍昇格、打率.227を残したものの翌春からは投手に挑戦。3年目の1997年は野手として17試合出場、投手としても2試合に登板した。1998、99年は野手としてプレーしたものの、2000年に投手として初勝利、2001年には左腕リリーフとしてリーグ最多の70試合に登板した。2004年限りで引退するまでに、投手としては通算136試合に出場し3勝7敗、防御率4.84。野手としての出場を合わせると1軍通算272試合に出場した。

投手→野手→さらに投手という数奇な運命をたどった遠山

3球団でプレーした萩原淳は、強肩強打の三塁手として1992年ドラフト2位でオリックスに入団、イチローや田口壮と同期だった。ただ野手としては2000年までの9年間に通算1安打と結果を残せず、同年のシーズン中に投手へ転向した。

2001年に1軍初登板、2002年には48試合に登板し10セーブ、防御率2.64の好成績を残した。2007年シーズン中に日本ハム、2008年からはヤクルトに移籍、2010年を限りに引退した。投手としては通算9年、270試合に登板し13勝15敗20セーブ、防御率4.91。6シーズンで30試合以上登板し、タフなリリーフとして鳴らした。

投手から野手、さらに投手へという数奇な運命をたどったのが阪神、ロッテでプレーした遠山奨志だ。1986年に八代第一高(熊本)からドラフト1位で阪神入団。清原和博の外れ1位だった。1年目から1軍で8勝、防御率4.22という成績を残したものの、故障に悩まされ成績はどんどん落ちていった。1990年オフに高橋慶彦とのトレードでロッテに移籍した。

ロッテでも投手としては成績を残せず、1995年に外野手へ転向、野手2年目の1996年には2軍イースタン・リーグで最多安打を記録した。2軍ではクリーンアップに座り強打を誇ったものの、1軍での出場機会には恵まれず、1997年オフに自由契約となった。

ここで古巣の阪神が投手として獲得、1998年にテスト入団で復帰を果たした。1999年からは監督に就任した野村克也の勧めでフォームをサイドスローに変更、巨人・松井秀喜キラーとして鳴らした。2000年には右横手の葛西稔とポジションを一塁、投手と入れ替えながらの1人一殺リレーが話題になった。投手としては通算14年で393試合登板、16勝22敗、防御率4.38、野手としては1995、96年の2年間に出場した12試合、16打数3安打、打率.188が全てだった。(Full-Count編集部)

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