プロ野球名実況の深澤弘さん「落合獲り密使」だった!長嶋氏との超親密関係打ち明けた

ニッポン放送ブースで解説する長嶋氏と実況の深澤弘さん(1988年5月)

プロ野球の名実況で知られた元ニッポン放送の深澤弘さんが8日に亡くなったことが分かった。85歳だった。8日のニッポン放送「ショウアップナイタープレイボール」で発表された。深澤さんは東北放送を経て1964年にニッポン放送に入社。実況アナとして活躍すると、巨人・長嶋茂雄氏らスター選手とも深く交流し、球界内外に多大な貢献度があった。そんな深澤氏との思い出を、本紙で「赤ペン!」連載中のフリーライター・赤坂英一氏が語った。

【赤坂英一 赤ペン!!】「バッター○○、打った、打った。ショート○○、追いつけない。グラブの先は、打球が空を切る風の音を聞いたでしょう」

ラジオ中継の名アナウンサー深澤弘さんが亡くなったと聞いた時、かつての詩情を感じさせる名調子が耳の奥に蘇った。

隣で解説していた長嶋茂雄さんいわく「私も見ました、瞬時にして見た」。この掛け合いに、神宮の記者席で聞いていた記者たちの間でドッと笑いが弾けた。確か、長嶋一茂がヤクルトの選手として出場していた1989年の巨人戦だったと思う。

深澤さんは長嶋さんとじっこんの間柄だった。生前のご本人によれば、75年ごろに長嶋さんから誘われて食事をするようになったのがきっかけ。

やがて後楽園での試合後に田園調布の自宅までつれていかれ、長嶋さんの素振りを見せられ「気がついたことを言え」と言われる。しまいには、中庭で打撃投手までさせられ、それが延々と午前2時まで続いたそうだ。

長嶋さんが第2次政権をスタートさせた93年オフは、長嶋さんの密使として中日・落合博満の獲得に動いた。FA資格を得た落合が巨人に移籍するつもりがあるのか、巨人関係者が事前に打診したら協約違反のタンパリングになる。そこで、深澤さんがひそかに落合に接触して確かめたのだ。

「あの時は、落合さんの前に信子さんにその気があるのか、それを知るのが先決だったんだよな。落合家ってのは、本人はもとより信子さんの意向が非常に強かったから」

とは、のちに深澤さんが打ち明けてくれた後日談。この時は落合の巨人移籍が実現したからよかったが、97年にFA資格を取った日本ハム・田中幸雄の獲得に動いた時は失敗したと語っている。

「当時、長嶋さんは幸雄にぞっこんだったんだ。あんなにすごいショートは巨人にいないってね。主力の川相は現役の後半だったし、期待した元木も今ひとつ伸びてこないだろ。それで、俺が幸雄を食事に誘って長嶋さんの思いを伝えた。結局、彼は残留したけどね」

そんな深澤さんが最近まで心配していたのは、ニッポン放送で長らく名コンビを組んでいた関根潤三さんの容体だった。深沢さんと関根さんとは家が近かったため、2020年に関根さんが亡くなるまで、頻繁に様子を見に行っていたそうだ。

「だいぶ衰えが目立ってきたからな。週に一度は関根さんの家に行ってるんだよ。俺が顔出すと、今は『おっ、深ちゃん、久しぶりだね、どうしたんだい?』なんて言ってくれてるからいいけど。そのうち、俺のことまでわからなくなるんじゃないかと思うと心配でな」

私にとっては、そんなお話をうかがった2~3年前が、深澤さんとの最後の会話になった。生前、格別親しくさせていただいたわけではないが、43歳でフリーになった15年前、個人的にこう励まされたこともよく覚えている。

「この仕事はな、50代が一番面白いんだ。俺も、50代は何だってできると思ってたもんだよ」

貴重なご助言、ありがとうございました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。

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