強豪校でない“普通”の高校生が巨人に入れた理由 鈴木尚広氏が回想する転機

巨人で活躍した鈴木尚広氏【写真:荒川祐史】

無名の高校生が巨人で走塁のスペシャリストになれるまで

プロ野球選手になる夢を抱いていなかった少年は、プロの世界で20年もプレーした。スポーツに様々な立場から関わる人物の経験を掘り下げる「プロフェッショナルの転機」。第3回は「走塁のスペシャリスト」として活躍した元巨人の鈴木尚広氏。プロで成功した理由には、子どもの頃から貫いたスタイルがあった。

「プロ野球選手になりたいという夢を持つことはなかった。とにかく野球が好きで、とにかくうまくなりたかった。目の前のことを楽しむだけでしたね」。

鈴木氏は父の影響で幼稚園の年長から野球を始め、小学校からチームに入った。自宅に帰ってからも父と練習する日々。野球が生活の中心だった。「理屈ではなく、体が野球の魅力を感じていました」。当時から足の速さは群を抜いていた。それでも、多くの野球少年が抱くプロ野球選手の夢を描くことはなかった。

小学生の時はバッティングが特に好きだった。外野の間を抜ければ快足を飛ばしてランニング本塁打になったが、一番の喜びは外野の頭を越す打球を打った時。右打席に立って思い切りレフト方向に引っ張り「遠くに飛ばせた瞬間は何事にも変えられない嬉しさでしたね」と懐かしむ。

鈴木氏が初めてプロを意識したのは、高校2年生の時だった。地元の福島にある相馬高でプレーしていた鈴木氏のもとに、プロ野球のスカウトが訪れた。甲子園に出場するような強豪校ではなく、卒業生に1人もプロ野球選手もいない。周囲はざわついた。ところが、鈴木氏は舞い上がることなく冷静だった。

「スカウトが来てプロを意識せざるを得ない部分はありましたが、スカウトが来たからプロ野球選手になれるとは限りません。自分のレベルは客観的に把握していたので、何で自分のところに来たんだろうと疑っている感じでした」。

当時から足の速さと肩の強さは高く評価されていた。しかし、鈴木氏はテレビで甲子園を見るなどして、自分よりレベルの高い選手が全国にはたくさんいると感じていた。グラウンドに現れるスカウトの数が増えても、鈴木氏の姿勢は変わらなかった。「意識してうまく見せようとか、急に声を出そうとか、普段と違うことは一切しなかったですね」。とにかく野球がうまくなりたい。初めてボールを握った時と気持ちは同じだった。

松井秀喜、清原和博…スター軍団の中で生き抜くために必要なこと

周りの評価も気にしなかった。鈴木氏は自らの性格を「よく言えば、ぶれない。悪く言えば頑固」と分析する。「認められたいと思うと行動も目的も変わってきます。自分が好きでやっていることを評価されるのが一番。目の前のことをやってきた先にプロ野球の世界があっただけです」。慢心せずに向上心を失わない性格はプロ向きだったのかもしれない。大好きな野球がうまくなりたい一心で練習し、着実に力を伸ばしていった。そして、高校3年の秋、ドラフト4位で巨人から指名を受けた。

プロに入っても、周りの声に左右されず、うまくなることに集中した。当時の巨人は、松井秀喜氏や清原和博氏らが並ぶ超重量打線。鈴木氏は「自分みたいな選手が能力のある選手に追いつく唯一の方法は、周りが休んでいる時にコツコツ自分の足元を徹底的に固めること」と信念を貫いた。一喜一憂せず、地道に丁寧に。休まず継続する力が、鈴木氏の強みだった。

「最初は毎年、FAで新しい選手が加入して『またか』と思いましたが、気にしなくなってからは自分自身が変わりました。まず、自分はどうなのか。使ってもらう選手なのか。同じことをやっていたら見つけてもらえないので、違うことをやろうと。足を武器にして勝負しようと思いました」。

毎年のように足の速い選手は加入したが、チーム内でタイムを競う時は一番にこだわった。もちろん、タイムの速さは野球のうまさと直結しない。鈴木氏は盗塁、走塁技術を磨いた。相手投手のクセをビデオで研究し、背番号の見え方やユニフォームのシワの違いまで分かるようになった。「役立ちそうなことは何でも試しました。自分から行動すると、同じものを見ていても変わる気がしました。通用しないと跳ね返されたプロの壁を少しずつ登っていった感覚です」。プロ5年目にイースタンリーグ2位の27盗塁を記録した。飽くなき探究心で武器を磨き、1軍に呼ばれる日に向けて準備した。

そして、巨人入団から6年目の2002年。その時が訪れる。原辰徳監督が就任し、チームのテーマに「スピード」を掲げた。その象徴が鈴木氏だった。1軍デビューし、開幕から間もない4月2日にプロ初盗塁を決めた。翌年は104試合に出場して18盗塁。「走塁のスペシャリスト」としての地位を確立した。

原監督との出会いは間違いなく転機だった。だが、チャンスを生かしたのは必然だった。鈴木氏は「やるべきことを続けてきたのでチャンスがきたと思いました。積み重ねてきたものが結果として出てきて、原監督が声をかけてくれる。自分にとっては自然な流れでした。」と語る。

1軍に呼ばれても、気持ちが高ぶることはなかった。アピールしようという特別な思いもない。コツコツと積み上げ、戦う準備ができている自負がある。目の前の仕事に対して最大限のパフォーマンスを発揮した。初めて1軍でプレーした2002年から、38歳でユニフォームを脱ぐ2016年まで、15年間1軍の舞台を駆け抜けた。主に途中出場ながら通算228盗塁を記録。盗塁成功率.8290と驚異的な成績を残した。

「人と違うところで自分の存在価値を出す。自分らしさを貫いて、やるべきことを継続していればチャンスはきます」。スカウトや原監督との出会いは転機ではあった。ただ、成功を保証するものではない。ぶれない信念と継続する力があってこそ。チャンスは偶然には訪れない。

○鈴木尚広(すずき・たかひろ)1978年4月27日、福島・相馬市生まれ。相馬高から96年ドラフト会議で巨人から4位指名を受け入団。怪我で2軍生活が長かったが、02年に原辰徳監督に才能を見出され、1軍デビュー。08年は外野手でゴールデングラブ賞受賞。同年の日本シリーズでは優秀選手賞獲得。200盗塁以上での通算盗塁成功率は82.9%とNPB記録を樹立した(当時)。2016年に引退し、2019年に巨人外野守備走塁コーチに就任。退団後は学生野球資格回復をするなど指導者としても活躍中。(間淳 / Jun Aida)

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