【読書亡羊】異能の研究者が解説する「ロシアのハイブリッド戦」の実相 小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』 その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!

「ハイブリッド戦」の背景を追う

自戒を込めなければならないが、新しい専門用語を知ると、何だか知った気になって多用しがちである。例えば安全保障の分野なら、「サラミ・スライス戦略」や「エコノミック・ステイトクラフト(経済安全保障)」などがそれで、ついつい訳知り顔で使ってしまい、何もかもがそれで説明がつくような気がして頻繁に口にし、ひいてはバズワード化しかねない。

「ハイブリッド戦」もその一つかもしれない。ロシアが2014年にウクライナ介入時に使ったとされる手法で、本連載の第一回でもロシアの「ハイブリッド戦」の一端を扱った書籍を紹介した(下記リンク参照)。いわば「旬」のテーマなのだ。

平時と有事の区別なく、また軍事・非軍事的手段の区別もなく、自らの国益にかなう状態に近づけようとする手法――といったところだが、では実際にロシアはこうした「ハイブリッド戦」をどのように構想し、国家戦略に組み込んでいるのかまではなかなか理解が及ばない。せっかく「ハイブリッド戦」について考えるなら、ぜひそうした背景も抑えておきたいところ。

そうした部分まで深くダイブできるのが、小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書)だ。「こんなに濃い内容が新書で!?」と驚く圧倒的ボリューム感で、ウクライナ介入時の実態を改めて深く掘り下げたうえで、さらにその背景にある「ロシア側から見える国際社会の景色」にまで触れられる良書だ。

【読書亡羊】やっぱりロシアは「おそロシア」 | Hanadaプラス

慌てず、備えよ

まず第一章で、ウクライナ危機が起きるまでの背景説明と、実際に起きたこと、それをロシアがどう認識しているか、を解説。この章を読んだ時点で、「あれ?」と思う読者もいるに違いない。

確かにロシアはウクライナ介入時、住民や軍人を煽動する情報を流し、電磁波攻撃を行い、インフラを麻痺させて自らに都合のいい状況を作り出し、クリミアではほぼ無血開城となった。だが、同じ「ウクライナ介入」でも、ドンバスではゴリゴリの軍事力が威力を発揮していた、という解説があるからだ。

つまり、「新しい手法」ばかりに目を奪われがちだが、ロシアが自らの軍事的・政治的目標を達成するためには、やはり古典的な(=ゴリゴリの)軍事力が必要だったのである。

あくまでもロシアは軍事力と非軍事力を相互補完させる「ハイブリッドな戦争」を行ったのであり、依然として軍事力も必要不可欠であることに間違いはない、というのだ。

もちろん、「ロシアのハイブリッド戦を警戒せよ」とのアラートに間違いはない。ロシアは確かに目標地域の住民や敵軍に所属する軍人の携帯電話にフェイクメールを送り付けるなど、先端テクノロジーを使ってはいる。

が、こうした「軍事的手段と非軍事的手段を織り交ぜ、その時点での最新のテクノロジーを使って自国に有利な状況を作り出す」という手法は、何もクリミアが最初の例というわけではなく、歴史的に何度も行われてきたことでもあるのだ。

ロシアもソ連時代からこの種の偽装情報工作に力を入れており、これについてはチェコ共和国のサイバーセキュリティ庁職員であるダニエル・P・バゲ『マスキロフカ』(五月書房新社)に詳しい。

となれば、やはりバズワード的に「何をおいてもハイブリッド戦に備えなければ、一方的にやられ放題だ!」と慌てる前に、何が新しくて古いのか、日本はこうした攻撃にどう対処すべきかなど、きちんと腑分けしておかなければなるまい。

筆者の小泉氏は普段、ツイッターでかなりソフトな(?)話題をつぶやいてフォロワーに親しまれているが、一方で「ロシア研究の俊英」と言われる見識の深さが、本書からビシビシ伝わってくる。

中国と通じるロシアの「被害者意識」

さらに第二章では、なぜロシアがこうした「非軍事的手段」に着目したのかという「思想」の部分に踏み込んでいく。ここで、ロシアが中国と共通する「被害者意識」を持っていることがわかる。

被害者意識とは何かといえば、「ロシア的な価値や道徳が、常に西側諸国から攻撃を受けている状態にある」というものだ。

世界各地で起きる民主化推進運動は「西側」の差し金によるものである。またロシア国内で起きる政府批判も、「西側」による「ロシア的価値観の揺さぶり、体制への信頼の棄損」によるものである。だからロシアはこれに対抗しなければならない。

ロシアは日々、「西側」との「永続戦争」を戦っている――これがロシアの考え方なのだ。

しかも軍事技術面でも「西側」、特にアメリカに大きく水をあけられており、そのギャップを何とかして埋めなければならない。そのため、非軍事的手段を使い、さらには「抑止的行動」として、アメリカの大統領選に介入し、SNSでフェイクニュースを流すのだという。つまり、攻撃ではなく「ロシアに対する攻撃を抑止するための行動」という認識なのだ。

確かに「西側」にすっかり安住している日本人にとっては、このあたりのロシアの「被害者意識」は実感しづらい。また、この感覚が分からないと、対露交渉などでも大きな考え違いを起こすことになりかねない。

『CanCam』とロシアの赤い関係?

本書は「ハイブリッド戦」そのものや、その背景にあるロシアの軍事戦略を追いながら、軍事思想、戦争観、さらにはロシアの世界観そのものを描き出してもいる。逆に言えば、世界観がなければ軍事思想も、軍事戦略も、さらにその下位にある戦争の形態もつかむことはできないということだ。

さて、かなり重厚な一冊だが、これだけ硬派で濃密な内容でありながら、突如として、20代女性を主要読者層とするファッション系「赤文字」雑誌『CanCam』の文字が出てきたのには驚かされた。また、政治に忖度したのか北方領土での露軍演習に関する筆者の指摘を「聞かなかったことにする」防衛省職員らとのやり取りには、思わず苦笑いしてしまう。

人呼んで「異能のロシア研究者」、自称「軍事オタク」という筆者のキャラクターが、濃厚なロシア分析の合間にチラリと見える箇所も、どうぞお見逃しなく。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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