米中枢同時テロから20年 級友犠牲、価値観が一変 浦芳郎さん(42)

相浦地区に広がる農地のそばで古里への思いを語る浦さん=佐世保市川下町

 2001年に発生した米中枢同時テロは11日で20年。長崎県佐世保市の会社員、浦芳郎さん(42)は当時、標的となった世界貿易センタービル(WTC)そばの大学に通い、多くの級友を失った。悲劇は、大都市を中心に物事を考えていた自らの価値観を一変させた。「世界を見据え、地方から豊かさを生み出したい」。今は古里に軸足を置き、地域の食材を国内外に発信する事業を展開している。
 同市相浦地区地身。幼いころからサッカーに没頭したが、高校時代に片膝の靱帯(じんたい)を断裂した。入院先で将来を見詰め「海外で学ぶ」と志望。父、久男さん(72)が背中を押してくれた。
 18歳でニューヨークへ渡り、語学専門学校を経て、ボロウ・オブ・マンハッタン・コミュニティ大学に入学。アルバイトで学費を稼ぎながら経営学を学んだ。
 00年秋に父が生活を見に来た。大学から数百メートル先にあるWTCの展望所に一緒に上り、世界経済をリードする輝かしい街並みを眺めた。「ここで勝負したい」と夢を膨らませた。
 ただ、大学で続けたサッカーで再び膝の靱帯を断裂。手術とリハビリのため01年6月に一時帰国した。

2000年秋に浦さんが通った大学近くで撮影した世界貿易センタービルの写真=米ニューヨーク(浦さん提供)

 9月11日。佐世保市の実家でテレビを見ていると、見慣れた街並みが目に飛び込んできた。次の瞬間、2機目の航空機が高層ビルに激突。逃げ惑う人々の姿や叫び声が脳裏に浮かんだ。現地の友人からメールが届いた。「恋人と連絡が取れない」「街に米軍が入った」「まるで戦争だ」-。その混乱ぶりにがく然とした。
 02年1月ごろに大学へ戻った。クラスメート約30人のうち、約20人は亡くなったとされたり、消息が途絶えたりした。校舎のホールの壁一面が行方不明者の情報を求める貼り紙で埋まり、室内プールは一時、遺体安置所になったと聞いた。「ここにいたら死んでいた。一瞬の出来事で世界が変わる恐怖を知った」。輝かしい街のイメージは灰色に塗り変わった。
 その後、近くのハンター大へ編入したが、テロの影響で勉強が続けられず、03年に中国・上海へ語学留学した。卒業後は飲食店検索サイト運営「ぐるなび」に入社。上海や台湾で13年間勤務し、日本食材の普及を担った。
 テロ以降、大都市を中心に回る世界に疑問を抱いてきた。「地域に根差した仕事をしよう」。19年春に古里へ戻り、父が個人経営する会社に入った。人脈を生かし、地元の魅力ある農水産品を国内外へ発信する相談事業を始めた。
 宿題もある。相浦地区の中心には広大な土地(約40ヘクタール)があるが、活用が進まない。土地改良区の活性化を推進する事務総括を任され、地域振興の拠点をつくる方法を模索している。
 20年前の「9.11」は今に至る出発点だったと思う。「情報化が進み、地方の可能性は広がった。家族や古里を大切にしながら地域づくりの役に立ちたい」。そんな決意を新たにしている。

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