キャンディーズ「微笑がえし」突然の解散宣言からの全キャン連宣言 1978年2月25日 キャンディーズのシングル「微笑がえし」がリリース

##リアルなアイドル、キャンディーズの弱点とは?
キャンディーズのランちゃんが好きだった。

おっと、今でも女優の伊藤蘭サンは素敵だと思うけど―― アイドル時代のランちゃんは、神がかり的にキラキラと輝いていた。それは同時代のアイドルたちとは違う、リアルな輝きとでもいおうか。今でいう “リア充” 感を子供ながらに感じ取っていたのかもしれない。

そう、キャンディーズはリアルなアイドルだった。僕が初めて彼女たちを意識したのは、多分、これを読んでる皆さんと同じく、1975年2月にリリースされた「年下の男の子」からである。ご存知、初めてランちゃんをセンターに据えた楽曲。正直、スーちゃん(田中好子)がセンターだった時代を知らない僕は、最初からこの編成だと思い込んでいた。

 真赤な林檎を頬ばる
 ネイビーブルーのTシャツ
 あいつはあいつは可愛い 年下の男の子

大変おこがましい話だが、当時、僕はこの歌詞をまるで自分が歌われているかのように思い込んでいた(本当におこがましい!)。同時代のアイドルたちが10代の少女であるのに対し、キャンディーズは二十歳前後のお姉さんだ。そんな年齢も、いわゆるお人形とは違う大人のリアルを醸しだしていたのかもしれない。

実際、彼女たちのファンは同世代の男子大学生が多かった。僕の先輩であるホイチョイ・プロダクションズの人たち(当時大学生)も、聞けば、皆一様にキャンディーズのファンだったという。ちなみに、馬場康夫サンはミキちゃん(藤村美樹)ファンだったとか。

羨ましいのは、ホイチョイメンバーの一人のUサンで、当時、吉祥寺でランちゃんが縦列駐車に困っているのを見て、代わりに運転席に座って駐車してあげたそう。クルマを運転するアイドル―― その辺りもキャンディーズの魅力かもしれない。

とはいえ、そんなアイドル界で独自のポジションを築いていたキャンディーズだったが、1つだけ弱点があった。それは、オリコン1位の曲がなかったこと。特にライバルのピンク・レディーがセカンドシングルの「S・O・S」以降、連続1位を重ねていたのに対し、キャンディーズは「春一番」の3位が最高だった。

結果的に、彼女たちはそのデビュー以来の悲願を現役最後のシングルで叶えることになる。少々前置きが長くなったが、今回の話は、今から43年前―― 1978年2月25日にリリースされ、キャンディーズ初のオリコン1位を獲得した「微笑がえし」である。

##キャンディーズ伝説の幕開け、伊藤蘭をセンターに!
話は少しばかり、さかのぼる。

1974年冬―― キャンディーズ5枚目のシングルを控え、彼女たちの所属事務所の渡辺プロダクションで、ある作戦が練られていた。デビュー当初、センターは最年少のスーちゃんが務めていたが、これまでの4枚はオリコン30~40位台と低迷。そこで5枚目はセンターを年長者のランに変え、お姉さん路線で行くという。

発案者は、かつてザ・ピーナッツを育て、当時キャンディーズを担当していたマネージャーの諸岡義明サンである。既に3人の中でランの人気が頭一つ抜けており、彼女のファンの年齢層も高く、同世代の大学生が多かったことに目を付けての起用である。この決断が、後の「微笑がえし」へつながるキャンディーズ伝説の幕開けとなる。

レコーディングにはラン1人が呼ばれたという。彼女のソロパートが圧倒的に多かったからだ。彼女は一晩中、何度も歌い直しを命じられ、早朝6時、ようやくOKテイクが出たという。

5thシングル「年下の男の子」はオリコン9位と、キャンディーズ初のベスト10入りする。プロデューサーは松崎澄夫サン、作曲は穂口雄右サン、ギターは水谷公生サン―― いずれも、かつてグループサウンズのバンド、アウト・キャストで組んだ旧知の仲である。この3人は以降、キャンディーズの楽曲作りの柱となる。

##マネージャー大里洋吉の戦略、ライブ×ファン重視
そして、「年下の男の子」で火が着いたキャンディーズ人気は、次のステージへと移行する。ちょうどマネージャーが交代し、大里洋吉サンが新担当に就任したのである。そう、知る人ぞ知る、後のアミューズの創業者。そんな彼の戦略が、以後のキャンディーズ伝説を形成する。―― “ライブ” と “ファン” の重視である。

まず、ライブ重視――。大里マネは、それまでの歌謡曲的なビッグバンド編成をやめ、バックバンドにロックバンドを起用した。MMPである。アイドル+ロックバンドの編成は、今でこそ BABYMETAL などでも見られるが、当時は画期的だった。これ以降、キャンディーズは年間100本近くのライブをこなすアイドルとなり、洋楽のカヴァーも定番となる。それはMMP抜きにはありえなかった。

次に、ファンの育成である。こちらは1975年10月19日、蔵前国技館における『キャンディーズ10000人カーニバル』で開花する。なんとこのイベント、ファンが実行委員会を務め、キャンディーズはゲストの位置づけだったという。今でいうAKB48劇場におけるファン主催の生誕祭みたいなもの。とはいえ、実は陰で大里マネージャーが暗躍していたんですね。じゃなきゃ、こんな大規模なお祭りはできない。しかし―― この実行委員会が核となり、後の「全キャン連(全国キャンディーズ連盟)」へと発展する。

“ライブ×ファン” ―― この大里マネの戦略が、いよいよ大きな実を結ぶ時が来る。
――「春一番」である。

##ファンの声をバックに「春一番」をシングルカット
 雪がとけて川になって 流れて行きます
 つくしの子が
 はずかしげに顔を出します
 もうすぐ春ですね
 ちょっと気取ってみませんか

「春一番」は、当初はアルバム「年下の男の子」に収録された一曲だったが、ライブでの評判がよく、ファンからシングルカットの声が挙がっていた。それもそのはず―― 同曲は、前述のプロデューサー・松崎澄夫、作詞作曲・穂口雄右、ギター・水谷公生の渾身の一曲。元よりクオリティはお墨付きだった。

そこで、大里マネージャーはファンの声をバックに、ドンの渡辺晋社長に同曲のシングルカットを直談判する。かくして1976年3月1日、9枚目のシングル「春一番」がリリースされ、オリコン3位と大ヒット。それまでのキャンディーズの歴代最高順位となり、彼女たちの人気を不動のものにする。

キャンディーズはライブアイドルになった。そして会場を埋めるのは、いつも男子大学生たちだった。1976年10月には『キャンディーズ10000人カーニバル Vol.2』が同じく蔵前国技館で開催され、前回を上回る動員を記録した。2回目ともなると運営はファン主体となり、大里マネの手をわずらわせずに済んだ。

アイドルとファンの距離は近く、幸せな時間が続いた。だが―― その親密さが、思わぬ歴史的事件へと発展する。

##日比谷野外音楽堂での突然の解散宣言、そして全キャン連の恩返し
「普通の女の子に戻りたい――」

1977年7月17日、日比谷野外音楽堂。夕方過ぎに始まったキャンディーズのライブは盛況のうちにエンディングを迎えようとしていた。その時、突然、3人が涙ながらにファンに語り始めた。

「私たち、皆さんに、謝らなければならないことがあります」続いて出た言葉が、先の台詞だった。

突然の解散宣言。

それは、渡辺プロダクションにとっても寝耳に水だった。はっきりした理由は分からない。ただ1つ確かなのは、彼女たちは事務所やマスコミを通さず、直接、ファンの人たちへ自分たちの気持ちを伝えたかったということ。

事務所は困惑した。マスコミも身勝手な彼女たちの振る舞いを批判した。しかし――。

「全キャン連宣言。我々、全国キャンディーズ連盟は、ここに宣言します。キャンディーズの解散を支持し、さらに解散に伴う一切の誹謗中傷を排し、キャンディーズへの支援協力を、オールナイトニッポン ビバ・キャンディーズを通して、全国に呼び掛け続けるものであります」

時に、1977年10月1日深夜。千代田区にあるニッポン放送第1スタジオには数十人を超える大学生が集まっていた。全キャン連の幹部たちである。なんと、ここで彼らは予想外の行動に出る。ファンとして解散を惜しむことより、3人が望む解散への道のりを支援するという。

それは、あの日、日比谷野音で直接、自分たちに語り掛けてくれたキャンディーズへの、彼らなりの恩返しだった。

そして―― この日を境に世間の空気が変わる。不思議とキャンディーズへの逆風は止み、逆に解散を有終の美として盛り上げる機運になった。

ただ、ファンたちには1つ、やり残した仕事があった。それは、キャンディーズの楽曲をオリコン1位に押し上げること。事務所であるナベプロも同じ気持ちだった。

##キャンディーズ初の快挙「微笑がえし」がオリコン1位
1977年晩秋、キャンディーズの現役最後のシングルが企画される。作曲は、「年下の男の子」や「春一番」を手掛けた穂口雄右サンが指名され、作詞はCBSソニーの酒井政利サンのアイデアで、阿木燿子サンが起用される。

同年12月27日、最後のレコーディングが行われた。この日、3人は初めて譜面を手にして、瞬く間に完璧なコーラスを作り上げたという。一発録りだった。完璧な仕事だった。歌い終わった瞬間、そこにいる関係者全員が涙したと伝えられている。

 春一番が掃除したてのサッシの窓に
 ほこりの渦を踊らせてます
 机 本箱 運び出された荷物のあとは
 畳の色がそこだけ若いわ

1978年2月25日、ラストシングル「微笑がえし」リリース。

明るく、親しみやすいメロディは、3人を明るく送り出したい穂口雄右サンの親心だった。その詞には、キャンディーズのヒットナンバーのタイトルが散りばめられていた。有終の美を盛り上げたい、阿木燿子サンの心づくしだった。

発売されたその日から、全キャン連を中心に、ファンたちが精力的に動き始めた。友人たちにレコードを薦め、街頭でビラを配り、ラジオ局に「微笑がえし」のリクエストを送り続けた。運動は波動のように全国へ広がった。

翌3月13日―― その日はやってきた。オリコンで「微笑がえし」が1位になったのである。キャンディーズにとって初の快挙だった。ファンは歓喜した。

3人の伝説は、終幕へと向かいつつあった。後楽園球場で行われる彼女たちの解散コンサートは、22日後に迫っていた。

※2018年2月25日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 指南役

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