図書館で日本野球を勉強したロッテ・ディアズ 来日第一声は「沢村栄治投手を尊敬しています」

【越智正典 ネット裏】1952年、西宮北口をはじめ阪急電車の駅々に「本日、ニューベリー登板」の速報が貼り出されていた。村上実阪急代表(50年~54年1月31日)の人気球団阪神に対抗するための営みだった。

村上は米プロバスケットボールの「ハーレム・グローブトロッターズ」の支配人と親しく、ニューベリーは支配人の紹介で登板25試合、11勝10敗、阪急1年で帰国したが話題を呼んだ。

89年、ロッテにやって来たマイク・ディアズの来日第一声に驚いた。「沢村栄治投手を尊敬しています」。ディアズはカブス、パイレーツ、ホワイトソックス。どうして沢村さんを知っているのか、聞いてみると「日本へ発つ前に、一週間、サンフランシスコの図書館に通って日本の野球の歴史を調べて来たんです」。感心した。ディアズは在団4年、93本塁打。もっと打ってもらいたかった。

不況で倒産が相次いでいた75年の12月16日の太平洋ライオンズの中村長芳オーナーの会見はすさまじかった。留任を発表していた監督江藤慎一を打撃コーチ兼選手に戻し、後任に、1973年にMLBの監督を退いていたレオ・ドローチャーを招く…というのだった。ドローチャーはブルックリン・ドジャース、ニューヨーク・ジャイアンツ、シカゴ・カブス…と監督を歴任。通算2008勝、このとき69歳。

坂井保之球団代表がオーナーに代わって答える。「ドローチャーは確かに高齢です。常々、監督らしい監督を招きたいとは思っていたんですが、戦力も満足に整っていない、うちみたいなチームに有能な日本人監督が来てくれますか。そうなったら外国人監督に目を向けるのは当然の流れじゃあーないですか」(ベースボールマガジン2013年5月号)。

翌76年1月8日、中村長芳オーナーがアメリカに飛んだ。いうまでもなく、シーズンへの始動。キャンプインが迫っている。9日、中村長芳オーナーはドローチャーと会った。熱弁をふるったと思われる。

ドローチャーが監督就任を承諾した。契約金は超破格の日本円で6600万円。代表坂井保之が人気球団づくりに懸命な営みを始める。

ドローチャーのために博多駅前のホテルリッチの1泊3万円のスイートルームを用意した。国鉄(JR)の一区間が60円のときである。球団は200万円を投じて改装。シャンデリアを豪華にし、大きな冷蔵庫も運び込んだ。PRもヒットした。が、待てど暮らせどドローチャーはやって来なかった。テープがとどいた(あとで“2試合でチームの長所と短所をつかみ、6試合で完全に指揮を執ってみせる。まだ見ぬ君たちを愛している”と、吹き込まれていたのがわかったのだが)。球団事務所に選手集合がかかった。

机の上にポツンと録音機。竹之内雅史(鎌倉学園、日本通運、西鉄、このあと阪神で活躍、堺市浜寺の羽衣国際大学現代社会学部客員教授、野球部総監督)が言った。
「今日は英会話の練習か!」。お祭り騒ぎの球団への痛烈な名セリフである。=敬称略=

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