「流しの歌う漫画家」荒木ちえさん がんからの再起の道は〝楽〟を大切に!

「流しの歌う漫画家」荒木ちえさん(東スポWeb)

【直撃!エモPeople】コロナ禍、がんでも荒木町の地に足をつけて天職を続ける――。東京・四谷三丁目、花街の風情を残す酒場街・荒木町で知る人ぞ知る存在の“流しの歌う漫画家”荒木ちえさんが相次ぐ試練に立ち向かっている。和装に三味線を携え、軒から軒へ渡り歩く流しの営業は昨年3月末から自粛。年明けには自身のがんにも見舞われたが、二刀流の才能と人情味ある街の応援で再起を目指している。

見かけは三味線だが、オリジナルの五弦三味線「五色線」の音色を奏でながら、ちえさんが荒木町をそぞろ歩くと、二百数十店ある店の店主や客、近隣住民から次々と「元気?」などと声がかかる。

緊急事態宣言下、休業する店が多いなか、温かい目を向けられるのが街の有名人・流しのちえさん。コロナ禍を受け「何軒も歌い歩く私が万が一でも感染源になってはいけない」と昨年3月末から営業を自粛したままだ。

流しといえば、かつては北島三郎や故藤圭子さんもやっていた職業。飲食店を回り、客のリクエストに応じて伴奏したり、歌ったりするが、ちえさんの場合、歌いながら客の似顔絵も描く二刀流だ。それがキャッチフレーズの“歌う漫画家”たるゆえん。

「コロナ前の忙しい時は一晩で20軒ほどを2~3回転。歌と演奏、似顔絵で喜んでくれて、私を目当てに荒木町に来てくれる方もいらっしゃるのがやりがい。天職ですね」

ちえさんが荒木町で流しデビューしたのは2012年。北島三郎と同じ事務所だった平塚新太郎師匠に弟子入りし、師匠と男女コンビとなった。漫画界の大先輩・東陽片岡氏(63)が昭和歌謡好きのちえさんと師匠の縁をつないだ。

幼いころから、英語教師だった母の影響で洋楽と昭和歌謡を“耳コピ”し、大学時代も地元・名古屋でオジさんバンドのマスコットとして昭和歌謡を歌い、ライブバーでは飛び込みで歌ったという。

「人見知りせず、直感で人と仲良くなる糸口を探すのは得意。初めてのお客さんと30秒で打ち解けないと商売にならない流しの素養は今考えると地元で身につけていたかも」
漫画の才能は、大学生だった10代で某出版社の新人賞を受賞し「子連れ狼」で知られる小池一夫塾の1期生として鍛えられた。

「過酷すぎて一度は漫画を嫌いになり、現実逃避気味に名古屋の芸術大の短大に社会人入学し、立体作品を学びました。すると、嫌いになったはずの漫画のオファーが地元情報誌から来て、仕事となると、やる気が出て3年間連載しました」

荒木町ではシンガー・ソングライター、作詞・作曲家で知られる小椋佳氏(77)とも出会い、大きな転機となった。ちえさんの歌声を「ノドがいい。いい声をしてる」と絶賛した小椋氏は、新太郎師匠が亡くなった後、1人で流しを続けるちえさんに楽曲提供。19年に小椋氏プロデュースでミニアルバム「泣かないよ」が完成した。

CDデビューしたちえさんは「紅白歌合戦に荒木町から中継で出演したい」と夢を抱いたが、コロナ禍に突入。さらに試練が襲う。今年1月、直腸がんと告知されたのだ。
「師匠が亡くなった後、1人でがむしゃらにやって楽しかったけど、アドレナリンが出すぎて体が疲れていることに気付かなかった。手のひらや足裏に水疱ができて微熱が出るなど、体に異変が出始め、今思えば、精神的なストレスがあった」

2月に切除手術、組織検査の結果、転移は見られず、投薬や放射線治療の必要はない、ステージ2で乗り越えた。

「死を覚悟してたので命拾いしたと思ってます。これまでの人生の転機は何度もあって、自分と向き合うことを散々してきたので、これで一回転してリセットされた感じ。がんも漫画や歌と同じで、私の体が表現したもの。これからは師匠の教え、滅私奉公、出会いも大切にしながら、自分が楽しいことを体に聞きながらやろうと思ってます」

ちえさんの活動を支援するため、荒木町のママら有志が昨年6月「ちえfun倶楽部」を立ち上げ、サイトで配信ライブや似顔絵の通販、小規模ライブや宴会などへのオファー受注をしている。

ママらが「荒木町の無形文化財」と呼ぶちえさんのためにも、にぎやかな酒場が戻る日を早く取り戻さねばならない。

☆あらき・ちえ 本名・宮本千愛。名古屋市生まれ。19歳で某大手出版社の新人賞受賞。大学中退後、小池一夫塾に入塾。修了後、名古屋造形芸術大短大部入学。2011年、上京し漫画家・東陽片岡氏と知り合う。12年、東陽氏の紹介で当時日本最長老のギター流し・平塚新太郎師匠に弟子入り、荒木町デビュー。師匠とのコンビで名物に。17年の師匠死去後は1人で活動。19年、小椋佳氏プロデュースのミニアルバム「泣かないよ」でCDデビュー。最新情報、出演依頼はサイト「ちえfun倶楽部」。

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