【追う!マイ・カナガワ】満州と家族史(下)母に何が?「大阪の男性医師」情報求む

実母の戦争に関わる書類を手に、「自分のルーツが知りたい」と話す鈴木豊子さん(仮名)=川崎市内

 「自分のルーツが知りたい」─。戦後76年の夏。戦争に翻弄(ほんろう)された家族の歴史に今も向き合う横浜市鶴見区の看護師・鈴木豊子さん(67)=仮名=から、「追う! マイ・カナガワ」取材班に依頼が届いた。「ルーツを知るために、旧満州からの引き揚げ船・高砂丸に乗船していた大阪の男性医師について知りたいんです」。豊子さんは家族が旧満州で過ごした時間に思いをはせながら、情報提供を呼び掛ける。

◆夫と生き別れ

 叔母だと思っていた女性が実母だと知った後、その「母」の故郷の佐賀県庁で保管されていた引き揚げ状況の記録を、親族を通じて手に入れました。

 母は1916(大正5)年生まれで、同県唐津市で看護婦として働いていました。27歳だった43(昭和18)年に、日本政府が移民を派遣する満蒙開拓団の一員として、満州(現中国東北部)の興安東省阿栄旗(アロンキ)に渡りました。現地の病院で働く中で終戦を迎えました。

 軍人の夫がいたようですが、終戦の前後に先に日本に帰国し、母とは生き別れとなったようです。

 終戦後、中国では内戦が始まりました。医師や看護婦が不足していたため現地で強制的に徴用されました。母が帰国後に、佐賀県庁に引き揚げ者を対象にした給付金申請のために提出した書類には「(中国共産党側の)内蒙古解放軍の命令によって衛生技術者として引き揚げを中止され、現地の病院に勤務を余儀なくされた」と記されています。

 ただ、親族からは衛生技術者として中国側に徴用されていた間は、非常に恵まれた生活をしていたようだと聞きました。帰国の際は、中国の人から刺しゅうを贈られたりしたそうです。

 母は終戦から8年後の53年にようやく徴用が解かれ、日本に引き揚げることができました。中国からの引き揚げ船が出港する秦皇(しんこう)島の港から高砂丸に乗船し、7月8日に舞鶴港(京都)に到着した記録が残っています。

◆「偽装夫婦」

 私がどうしても知りたいのは、高砂丸で、母と「偽装夫婦」として一緒に引き揚げたという大阪の男性医師の情報です。

 親族の話によると、日本に引き揚げてくる際、母は私を身ごもっていて、半年後に私が生まれました。引き揚げる間際の数カ月に、母に何があったのか、その医師の方なら、何か知っていたかもしれない。ただ、大阪の医師ということだけで、名前もどこに住んでいるのかも分かりません。

 私が20代の頃、まだ叔母として接していた母に一度だけ満州の話を聞いたことがあります。テレビで旧満州の映像が流れ、「引き揚げる時はどうだったの?」と私が聞いたからです。

 母は「逃げる時に若い女性が連れて行かれた。子どもが逃げる途中で泣かないよう、みんなで助け合った」と涙ぐみながら話してくれました。終戦直後の混乱の話だと思います。

 その時、「引き揚げ船では、既婚者が優先的に帰れた。本当の夫婦なのか見張られていた」というようなことも話していました。まさか「おばさん」が母だとは思ってもいなかったので、その時は深く話を聞くことはありませんでした…。

◆悲劇は今でも

 53年7月8日に舞鶴に到着した高砂丸には1817人が乗っていたと記録があります。厚生労働省が保有する乗船名簿を見られれば、男性の情報が分かるかもしれない。ただ、親族関係を証明できなければ、個人情報を見ることはできません。

 68年前に高砂丸に乗っていた人なら、母や大阪の医師について覚えているかもしれない。そう思い、マイカナに投稿しました。

 戦争からもう70年以上が経過しますが、私の家族の中の戦争は終わっていません。自分がどうして生まれたのか、ルーツを知りたい。知りたいのに、知れないことが、一番つらいです。もっと早く知っていれば、正しい情報が伝わったかもしれない…。まさか70年以上前の戦争の影響が、わが身に起こるとは予想もしていませんでした。

 こうした悲劇は、紛争が続く今も、世界のどこかで起こっていることだと思います。母のように、一生語ることができない不安や恐怖がある。非人道的なことを生んでしまうような戦争は、二度と起こしてほしくはありません。

◆取材班から

 「こういう思いをしたのは、私だけでないかもしれない」。豊子さんがマイカナに投稿した思いだ。

 4年前に突然知らされた出生の秘密。「叔母」として生き、亡くなるまで独身だった実母が、その事実を娘に語ることはなかった。

 実母と同じ看護師の道を歩んだ豊子さん。「目の前に困っている人がいれば、日本に帰してもらえないからといって、看護師として逃げることはできなかったはず」と戦後8年に及んだ中国での徴用に思いをはせる。

 「戦争では非人道的なことが起こる。だからこそ、起こしてはいけない」。豊子さんの言葉を胸に刻みたい。

◆「留用日本人」知られざる苦難

 終戦後、旧満州では中国共産党と国民党の内戦が起こり、取り残された日本人が両軍によって強制的に徴用された。こうした人々は「留用日本人」と呼ばれ、戦闘員、医療関係者、軍需工場技術者らが戦後の中国の人員不足を補った。

 1949年、国民党が敗退し中華人民共和国が建国されると、留用が解除され帰国できた人々もいた。一方、豊子さんの母親のように中共軍側に留用されていた人々は、引き揚げは許されなかった。

 50年代に中国から引き揚げた留用日本人の証言が当時の本紙に載っている。

 「満州方面と天津には残留看護婦が大分留用されている」(52年2月19日)、夫婦で医師、看護婦として中共軍に留用されていた一家の帰国を伝える記事(55年2月28日)には、男性医師が「二度とこうした犠牲者をださないようにして下さい」と涙で訴えた様子が残る。

 78年に厚生省(当時)が発行した「引揚げと援護三十年の歩み」には、中共軍に留用されていた人々は「家族を含め三万五千人はくだらないと推定されていた」と記述が残るが、実態は不明のままだ。

 日本赤十字看護大の川原由佳里教授(看護史)は「留用されていた看護婦は人員不足から医師の仕事もこなし、貴重な人材として重宝されていたことが手記からも分かっているが、その全体像は数も含め解明されていない」と説明する。

 豊子さんの母は、日本赤十字社にも陸海軍にも属していなかったため、戦後に国が支給した従軍看護婦への給付金も受けていない。川原教授は「組織に属していない看護婦の歴史は手記もほとんど残っておらず、引き揚げる際もとても苦労したことが想像できる」と話す。

 舞鶴引揚記念館(京都)によると、舞鶴港には45年~58年までに、延べ346隻の引き揚げ船が入港した。厚生労働省には過去にも、「偽装結婚」での引き揚げに関する問い合わせはあったという。ただ、婚姻関係などを戸籍上確認できない場合は、情報は開示していないという。

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