米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編)

By 「ニューヨーク直行便」安部かすみ

Image: Pixabay by Gerd Altmann

911それぞれの記憶2

「毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私はそれを聞き、涙が溢れ出た」

エリサさん(72歳、俳優・アーティスト)

テロから20年。グラウンドゼロには、ビルから避難できず亡くなった友人の名前も刻まれている。

今年25になった娘にはいつも言っている。あの辺に行くことがあるときは、決して歩き去ることのないようにと。必ず立ち寄って、きちんと犠牲者に敬意を表しなさいと。あそこは通り過ぎる場所ではない。

私の自宅は、世界貿易センタービル(ツインタワー)から大通りを挟んだはす向かいにあった。1993年の爆破事件の時もここに住んでいたが、私のアパートまで揺れるほどの衝撃だった。

そして2001年9月11日。今でも私はあの日のことを、ほとんどすべてのことを思い出すことができる。

あの日の朝は快晴だった。当時5歳の娘をすぐ近くの幼稚園に送り届け、その足でプールに泳ぎに行ってすぐに戻って来る予定でいた。

幼稚園もプールも自宅から目と鼻の先だ。水着の上に軽く羽織っただけのような軽装で、持って出たのは鍵だけ。財布、携帯電話、IDなどすべて自宅に置いたまま、娘を自転車のチャイルドシートに乗せて、幼稚園に向かった。

とても美しい青空が広がっていたが、それとは対極的に、実は私も娘もその日は少しナーバスでそわそわしていた。なぜならその日は幼稚園の初日で、丸1日娘が園の生活に溶け込めるだろうかと少し心配していたから(注:アメリカは9月が新学期)。また私はほんの数週間前に最愛の母を亡くしたばかりで、まだ悲しみの中にいた。

私は娘の様子を確認するために、しばらく教室の外から見守っていた。教室の窓からは、すぐ近くに世界貿易センタービルが見えた。

ちょうどそのころ、1機目がビルに追突した時間だが、私がいる場所からは何も見えず音も聞こえなかったので、しばらく誰も気づかなかった。娘が大丈夫そうなのを確認し、私は階段に向かった。ちょうど真ん中あたりにさしかかると、下から人々の叫ぶ声が聞こえた。何を言っているのかはわからないけれど、その人たちの動揺ぶりからこれはただ事ではないと察した。発砲事件か何か大変なことが起きたと思った。私も怖くなり娘のいる教室に引き返した。

窓の向こうに見えたビルには大きな穴ができ、そこから黒煙が上がっていた。飛行機が突っ込んだ穴だ。私はとにかくびっくりした。まるで世界の終わりとでも言うようなとてつもなく恐ろしい光景が広がっていた。人々の泣き叫ぶ声は聞こえたものの、激突音などはまったく聞こえなかった。園内は先生が行ったり来たり騒然とし始めた。子どもに見せまいと先生はブラインドを下ろした。皆その時はまだ事故だとばかりに思っていた。

私はそのビルがこちらに向かって崩れ落ちてくるのではないかと、恐怖心でいっぱいになった。そのころの私の心境として「母も死んだ、私も死ぬんだ」といったような(絶望的な)思考回路だった。

逃げようにも、保護者がいない子どももいる。場所柄、ビルで働いていた親も多かった。警察の指示があるまで動かない方がいいと、園長先生が全児童を1箇所に集めアニメ上映をし始めた。娘は今でもそのアニメを覚えている。しばらくすると屋外に避難し、PS3(公立小学校)に北上するよう指示があった。大人は全員、両手に子ども4人ずつ手を引き外に出た。

大通りはビルの方から逃げ惑う人々で溢れていた。周り一面は砂嵐だ。あれほどの砂嵐はビーチ以外で見たことがなかった。この時も音は聞こえなかった。とにかく私が覚えているのはこうやって(高層ビルを見上げるように)振り返ったことだけ。

無音の世界だった。想像してみて。このような状況ではものすごい騒音がする時でさえ、音は一切聞こえなくなるものよ。

砂嵐が吹き荒れる中、ビルは一瞬にして崩れ落ちた。私も子どもたちも泣き叫んだ。もうもうたる黒煙が広がり、空一面が真っ暗になった。車の走っていないハイウェイを子どもたちの手を引いて、ひたすら走った...。そのうち人々は疲れてデモ行進のように歩き始め、トボトボ歩いて歩いて歩いて...。やっとPS3に到着し、そこで保護者のいない子どもを警察に託し、まずは一安心となった。

私の成人した2人の息子は、それぞれ自立しブルックリンに住んでいた。さぞや心配しているだろうと思ったが、私は携帯も財布も持ち合わせていなかった。

しかし、途中から一緒に歩いた見ず知らずの女性がいて、私に「これから仏教寺院に祈りに行く。そこに電話があるから一緒に行きますか?」と提案してくれた。そうしてやっと電話にたどり着けたのだが、私は一連の出来事で記憶喪失のようになっていて、誰一人番号を思い出すことができなかった。昔は電話番号案内サービスというものがあり、それを利用してやっと息子と話すことができた。その優しい女性は別れ際、私に5ドル(約500円)をくれた。私たちはそれでヨーグルトと牛乳とチェリオス (コーンフレーク)を買うことができた。

腹ごしらえをし、娘を背負って再び徒歩で息子の家を目指した。とにかく暑かったが、ウイリアムズバーグ橋の麓では水の配給が行われていた。橋を渡りながら振り返ると、恐ろしい光景が広がっていた。娘は「火事だ!火事だ!」と泣き叫んだ。娘は今でも、この光景をしっかり覚えている。

ブルックリンに入ると、その日はバスが無料になっていた。しかし大勢の人がマンハッタンから避難してきたので、バスに乗るのにも一苦労だった。乗るのに1時間半ほどかかった上、バスは人々を乗せて周回し(それほど遠くない)息子のアパートにたどり着けたのは夕方5時だった。もう1人の息子とも会え、私たちは無事の再会を喜び合った。

一方でその日から、私は事故により受けた精神的なショックが長引き、テレビニュースで惨事を目の当たりにするたびに、涙がとめどなく溢れるようになった。死者数が1人増え、また1人増え。友人、誰かの友人と訃報が次々に入ってきた。

自宅には数日間、戻ることができなかった。私も娘も着替えも何もない状態で、友人が洋服を貸してくれたりもした。学校もオフィスもしばらく閉鎖となった。

やっと自宅に戻ることができたのは、テロから1週間後のこと。IDがないということはここに住んでいる証拠もないため、自宅に戻るのも一苦労だった。警察に敷地内に入れてもらえずにいたが、近所の人が私がここの住人だと証言してくれ、やっと我が家に戻ることができた。

アパートとその一帯はクライムシーン(凄惨な事件現場)の中心だった。近所の家には機体の一部が窓を割って部屋の中まで突っ込んできている惨状だった。そして建物、プール、屋根...あらゆる場所に亡くなった方の遺体の一部が散乱している状態だった。私は見ていないが、ビルのコンシェルジュが私に教えてくれた。彼は事件後も避難できずにいた。なぜなら2階で1人暮らしをしている老人が事故後どこにも避難できなかったから。あのような状況の中、彼はこの老人と一緒にいてあげたのだった。

私の自宅も大変なことになっていた。あの朝すぐに戻る予定だったので、窓を開けたまま外出していた。自宅の部屋という部屋、そして物という物はすべて、数センチほどの分厚いダスト(埃、ごみ、残骸)で覆われていた。携帯を取り上げると、その跡がくっきりとわかるほどだった。

自宅にはしばらく住めず、滞在先の息子宅からちょくちょく戻っては清掃や修理をするような生活が続いた。そのうちエアーフィルターを手に入れることができたが、マットレスやおもちゃやそのほかいろいろなものはもはや洗えば使えるという状態ではなく、たくさん処分した。

私の自宅窓からは、世界貿易センターが見えた。テロから4、5ヵ月経っても、キャンプファイアーの後のように燻った火はなかなか鎮火していなかった。

そこから毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私の耳にも届いた。

その音色が聞こえるたびに、今日も新たに遺体(の一部)が見つかったことを知る。私はワインを飲みながら、悲しい知らせを告げる音楽を聞く。涙がとめどなく溢れ出る。

今夜も次の夜も、またその次の夜も・・・。

自宅が住める状態になるまで数ヵ月間かかった。その年の感謝祭(11月末)はなんとか自宅で祝うことができた。幼稚園は4ヵ月後の翌年1月に再開したが、園に行っても私はあの時受けたショックから、娘の教室がどこにあるのかわからなかった。

この事件は私のその後の人生にも影響を及ぼした。

私は2015年に膀胱がんと診断され、臓器の摘出手術と化学療法を受けた。髪が抜け落ち、痩せてしまった。その3年後に孫娘も事故で亡くした。離婚した息子にとってたった1人の子どもだった。これらの体験は911の体験をはるかに凌駕するほど辛いものだった。

さまざまな問題が起こった私を誰も助けてはくれなかった。いや、私はできるだけ周囲の人を助けようとし、また人々も私に手を差し伸べようとしてくれたが、何の助けにもならず、そこから私が救われることはなかった。私が体験したことはすべて(他人が援助できるレベル)を超越していた。

私は時々、何も感じられなくなってしまっていた。一方で、映画を観に行き暴力的なものや虐待など過激なシーンが流れると涙が止まらなくなり、その場にいられなくなることもあった。いわゆるPTSDと言われるものだ。アートや音楽などさまざまなセラピー、メディテーション、そのほか良さそうな治療という治療を受けて今に至る。

私が当時、自宅での清掃時にマスクを着けていたかどうかは...思い出せない。ただ言えるのは、テロから14年後にがんになったということだ。私はこれまで一度もタバコを吸ったことはない。救助や復興活動をした多くのファーストレスポンダーがその後病気で亡くなっている。また、我が家は利用しなかったが、ほかの部屋で雇った清掃業者の中には、(違法滞在のため書類が必要な)仕事に就くことができず、この清掃作業に臨時で雇われた人もいたようだ。彼らのその後を思うと本当に気の毒だ。

今でも涙がこみ上げてくる、これだけのトラウマを抱えた状態でなぜ私がこの体験を話そうとしたか。それは私が死んだらこの話は誰も知らなくなるから。生きているうちに体験談を伝えていくことは大切だと思った。私たちは歴史を知る必要がある。

広島の原爆の被爆者でもあった私の78歳の友人はCOVID-19で亡くなった。彼は生前、子ども時代の戦争体験を私に話してくれた。一方、私は両親や祖父母の昔話を知らない。彼らは思い出したくないと、自分たちの過去を語ろうとはしなかった。ホロコーストや原爆投下など歴史上ではひどいことがたくさん起こってきたが、人は時々、自分で見たもの以外を信じようとしない。しかしそれは起こった、見た、体験した。ならばそれを伝えることが大切だ。いつまでも人々がその悲劇を忘れないように。

9月は娘と息子の誕生月であり、孫娘が亡くなった命日もある。そして911。大変な思い出が詰まっているが、センチメンタルになりすぎないようにしている。だって私の記憶には辛いことだけではなく、いい日もたくさんあったから。

Interview and Text by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

© 安部かすみ