野球は筋書きのないドラマと言われる。
一方で、故野村克也氏(元ヤクルト、阪神、楽天監督)は、こんな名言も残している。
「勝ちに不思議な勝ちあり。負けに不思議な負けなし」
思わぬ形で勝利を手にすることはあっても、負ける時は必然があるということだ。
筋書きのないドラマで、不思議な勝利はたまにはある。9月7日は、そんな「奇跡」が同時に二つも起きた。まさにドラマチックな夜だった。
一人目の主役はオリックスの大下誠一郎である。
オリックスの本拠地・ほっともっと神戸で行われたロッテとの首位攻防戦。直前に首位の座を明け渡したオリックスにとっては、絶対に負けられない試合だ。
主砲の吉田正尚が、左太ももを痛めて戦列を離脱してチーム事情は悪い。
試合は序盤にロッテが3点を先制して、7回終了時には2点のリード。ここで、敗色濃厚なオリックスにヒーローが出現した。
大下は8回裏に代打で登場すると左越え本塁打で勢いをもたらし、この回に同点。続く9回には、一死満塁の場面でセンター頭上を越すサヨナラ打で決着をつけた。
劇的なのは打撃だけではない。大下が1軍登録されたのはこの日のこと。そればかりか、当日の昼まで広島で行われていたウエスタン・リーグに出場している。
「4回表くらいに、すぐ準備して神戸に行ってくれと言われた」。本人が語るように、突然の指名で新幹線に飛び乗り、1軍のベンチに到着したのは、試合開始後だった。
吉田の離脱に加えて、この日は大物助っ人のA・ジョーンズが新型コロナワクチン接種後の副反応のため、一時的に出場選手登録を抹消されていた。そこで首脳陣が起用したのが大下だった。
それまで、1軍ではわずかに1本のヒットしか打っていない男が離れ業を演じた。
もっとも、この2年目の育成選手出身は昨年9月の1軍デビューとなる楽天戦でもプロ初打席初本塁打を放っている。その、強運と意外性にかけたのならベンチの“殊勲打”でもある。
この3連戦は結局1勝1敗1分けに終わり、オリックスの首位再奪還はならなかったが、伏兵の働きがなければ、ズルズルと後退してもおかしくなかった。
優勝争いをするチームには、多くの場合「日替わりヒーロー」が出現する。
この日は横浜にも、奇跡の主人公が現れた。DeNAの宮国椋丞だ。
昨年、戦力外通告を受けた巨人を相手に移籍後初登板で初勝利を挙げた。
かつて、巨人で開幕投手にも抜擢された「期待の星」も、その後は故障もあり鳴かず飛ばずの日々が続いた。
戦力外となって、昨年オフには12球団合同のトライアウトを受験したが、他球団からのオファーは届かなかった。
藁にもすがる思いでつてを頼って、ベイスターズと育成選手契約を結んだのは3月のことだ。
しかし苦闘の日々は続き、8月末にようやく支配下登録を勝ち取る。白星は2017年7月のヤクルト戦以来、1518日ぶりのことだった。
古巣の巨人というより、相手の先発のマウンドに立ったのが、エース菅野智之というのが奇跡のドラマをさらに濃密なものにした。
毎年のようにオフの自主トレでは、大エースの姿を追った。技術面から精神面までアドバイスをもらった“師弟関係”である。
相撲で言えば横綱に立ち向かう十両力士くらいの開きはあっても、勝負事は下駄を履くまで分からない。
いきなり2点を許したが、粘りの投球に味方打線が応えて大逆転、宮国の野球人生第2章が始まった。
弱肉強食、実力がすべての世界。昨年を例にとれば123人の新人選手がプロ入りしている。
当然、それに近い数の選手が退団を迫られる。その中でスター選手と呼ばれるのは、ほんの一握りだ。
大半はベンチを温め、出場の機会をうかがうかファームで汗を流している。
本塁打王争いを独走する巨人・岡本和真やパ・リーグの投手3部門を独占する勢いのオリックス・山本由伸のような超一流の輝きはまばゆい。
しかし、どん底から這い上がって来る大下や宮国らにスポットライトが当たる日があってもいい。
ドラマチックな展開に酔いしれた夜。これだから野球は面白い。
荒川 和夫(あらかわ・かずお)プロフィル
スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中