原発処理水放出の「風評」、そのあやふやな正体とは? 市場関係者が語った意外な言葉

東京電力福島第1原発の敷地内に林立するタンク=1月

 「風評」って何だろう、どこで生まれているんだろう。東京電力福島第1原発事故の後、福島県を苦しめてきたこの言葉はどこかあやふやで、正体が見えずにいた。第1原発で発生した汚染水を浄化処理し保管している水を巡り、政府は海洋放出すると決めた。再び起こる可能性が高い風評の実体を探ろうと、首都圏の市場や飲食店を訪ねたところ、そこで出合ったのは意外な言葉だった。(共同通信=武田爽佳)

 ▽世界一安全?

 日本最大の市場である東京・豊洲市場。全国各地から届いた魚を載せて市場内を縦横無尽に駆ける運搬車をよけながら、ある仲卸業者にたどり着く。次々とやってくるバイヤーたちは、氷の中で鈍く光るアジやカツオを手に取って吟味していた。社長の男性によると、原発事故が起きた直後は東北3県や茨城、千葉県で取れた水産物を避ける人は多かったが、今は気にする人はほとんどいない。処理水の海洋放出方針が決まった後も、仕入れた福島のサバが他県産と同じように売れた。

東京・豊洲市場の仲卸業者の店先に並ぶ全国各地の魚=6月

 ただ、福島産をかたくなに避け続ける量販店もわずかにある。「商品は全部産地を書くんだから、店頭に並べて消費者に選んでもらえばいいのに」。そう思いながらもおのずとこの店に福島産を薦めなくなった。「産地が一生懸命やっているのに、やるせないよね」。社長は眉をひそめた。

 東京都北区で魚料理がメインの居酒屋を営む男性は、2年ほど前から福島産を使い出した。「マイナスな反応をするお客さんはまずいないよ」。JR藤沢駅(神奈川県)近くの居酒屋も普段は地元産の魚を使うことが多いが、マネジャーの女性に聞くと、福島のメヒカリの炊き込みご飯や他の魚の刺し身を期間限定で出した時も「皆さんそんなに気にしなかった」とさらりと答えた。

メヒカリの炊き込みご飯

 3人とも、地元自治体などが主催したツアーで実際に福島県の漁港に足を運んでいた。原発事故後、福島県沖で取れた魚などの水産物は、種類ごとに市場の検査機器に入れられ放射性物質を測る。県漁業協同組合連合会によるこの自主検査は、漁があった日は毎日行われる。職員が検査機器に入れるために魚をおろし、切り刻んでいく様子を目にした豊洲市場の仲卸業者の男性社長は「こんなに真面目にやっていたのか」と目をむいた。「他の産地でここまで検査しているところはない。むしろ世界一安全じゃないか」。県漁連のホームページに公開されている検査結果には「不検出」の3文字がずらりと連なっていた。

 ▽過剰な忖度

 福島県の漁業者や水産物加工店の経営者は、魚の安全性確保に心を砕いてきた。放射性物質濃度が国の基準値を超えた魚が流通したことは一度もない。「これが10年間の実績。皆さんに一番分かってほしいことだ」。県水産加工業の団体代表の男性は政府との会合で言い切った。だが現実は、積み上げた科学的事実よりも、原発事故がもたらした負のイメージの方が強烈だった。

放射性物質検査のため魚をさばく漁協職員。左奥の検査室に並ぶ複数台の機器で全魚種を測定している=6月、福島県いわき市

 福島第1原発から煙が立ち上る映像がテレビに流れたあの日以降、福島の漁業者は1年余り漁を自粛せざるをえなくなった。その後、漁を行う海域や魚種を徐々に広げ、厳しい検査体制を築き上げた。魚に携わる業界では共有されている安全性だが「一般の人の情報は原発事故直後で止まり、アップデートできていない。専門的なことを分かろうとする努力も特に必要ないんだろう」。水産加工業の団体代表の男性は諦めたようにため息をつく。

 それを責めることもできない。「俺が思うに、風評の大元は人間の恐怖心なんだ。危険かどうかよく分からないものより、可能性がゼロの方を求めてしまう」。福島の漁業関係者は、同じ品質でも小売店のバイヤーたちが他県産に流れてしまう事態に直面してきた。

 国の調査では、福島県産を避ける消費者は実は多数派ではない。消費者庁が実施してきた意識調査で、福島産の食品購入を「ためらう」と答えた人は年々減り、今年は8・1%だった。たとえ少数でも「なぜ福島の魚を置いているの」と聞く客が一人でもいれば、スーパーなどの小売店は100%売れる他県産を仕入れるようになる。リスクを避けるため、福島の魚は消費者の目に触れる前に敬遠されているケースが多いとみられる。国の担当者も「売り手が過剰に忖度している傾向がある」とみている。

松川浦漁港にある観光施設のコーナーに並ぶ福島県産の水産物=4月、福島県相馬市

 小売店の経営的判断に加え、福島県沿岸の水揚げ量の少なさも足かせとなっている。海域や操業日を絞った試験操業が続き、水揚げ量は事故前の2割弱。東京の市場関係者は「福島は全国の中でもカツオの一大基地だったのに、今はぱらぱらとしか入ってこない」と残念がる。

 水揚げ量が少ないと、店頭に並ぶ機会も少ない。扱う店舗が増える見通しが立たなければ、漁業者は売れ残りを恐れ水揚げを増やすことをためらう。そんな悪循環から抜け出せずにいた。県漁連は今年3月にようやく試験操業を終わらせ、徐々に水揚げ量を増やすと決めた。その2週間後、政府は処理水の海洋放出方針を発表した。

 ▽小さな選択

 原発事故からの10年間、国や福島県の自治体が風評対策を次々と試みても、消費者や小売店の完全な安心にはつながらなかった。豊洲市場の仲卸業の男性社長は「『安心』は心の問題。本当なら安全性が安心を担保しなきゃいけない」と言う。

 人の心や、原発事故でゆがんだ流通形態を変えるのはたやすくない。風評が一瞬でなくなる魔法のような施策は見つからない。政府が処理水の放出方針を決めた後、8月に打ち出した風評対策を説明する際に「新規事業はどれか」と記者に問われると、担当者は「正直今までの拡充策が多い」と認めるしかなかった。

 男性社長は、負のイメージを打ち消すためには大々的な広報戦略が必要だと考える。「量販店の中で店頭に置くかどうかを決めるのは、バイヤーをやる平社員ではない。首相や有名な大臣が量販店の社長を福島に招き、一緒に検査の様子を見るのはどうか」

 福島のある漁協職員は、国の本気度を注視している。「霞が関の職員全員に福島産を買うように呼び掛けてほしい。買おうとする人が増えれば、店舗の姿勢は必ず変わる」

松川浦漁港にある観光施設の水産物コーナーに掲げられたメッセージ=4月、福島県相馬市

 風評と闘うべきなのは、漁業者や地元自治体、国だけではない。「風評を一番ばらまいているのは、マスコミじゃん」。取材を進める中、複数の関係者に掛けられた言葉だった。報道機関は性質上、人々の懸念につながる事象が起きた時に大きく報じる。後日、詳報や検証を試みる頃には、世間の関心が薄れていることが往々にしてある。

 処理水を巡る報道で、放出前に水が再浄化されることや含まれる放射性物質の性質を説明していても、家事や仕事の合間にニュースを見る人にとっては「福島の人も不安がっているという印象の方が強く残り、それだけ危険なことなのかなと思ってしまう」。東京都の居酒屋店主はそう分析した。国や東京電力はもとより、報道機関も受け取り手の感じ方を想像し、正確で効果的な伝え方を模索しなければならないと痛感した。

 店頭で福島産の食品を避けようと思った消費者には、商品を手に取る前に一度でいいから心の中で問い掛けてみてほしい。「この判断はあやふやなイメージによるものか、それともエビデンス(科学的根拠)に基づくものか」。一人一人の小さな選択が、風評の払拭にきっとつながっていく。

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