【仲田幸司コラム】91年オフ、新しい試みに挑戦して活路を見いだした

仲田(左)の投球練習をチェックする中村監督(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(2)】1992年の14勝という結果。これは何も考えず、何も変えずにプレーした結果ではありません。

2年目の85年から一軍で投げさせてもらってきましたが、なかなか期待に応えられない時期が続きました。

チームも低迷し、自分の成績も下降線で、91年オフにはもう来年あかんかったらクビかもしれんなと考えていました。

91年の成績は37試合に登板し6回の先発、1勝7敗、防御率4・25。入団したてのころはコーチの方からいろいろと気にかけてもらっていましたが、このころには声もかけてもらえなくなっていました。

そら当然です。次から次と期待の若手が入ってくるわけですから。そんな中で91年の秋季キャンプに臨みました。

もう、教えてもらえないのなら自分で考えるしか道はない。そう思い立って新しい試みにチャレンジしました。

従来の僕は直球と曲がりの大きいカーブで投球を組み立てていました。そこに今でいうカットボールに近いスライダーと、右打者の外に抜けるスクリューというかシンカーのようなボールを覚えようと取り組みました。

僕は左投手なので対戦する打者は右が多い。それまでの持ち球だと打者からすれば、内側への意識だけで対応できます。

そこで何とか投球の幅を広げようとしたわけです。そのスライダーとシンカーを91年の秋に習得して、92年の春季キャンプでグッとギアを上げました。それがうまくいってオープン戦でも試して、シーズンに入ってもうまくいったという流れです。

あと、フォームの部分でも変更点がありました。ミットを凝視しすぎずに一度、キャッチャーから目を切ることにしました。

自分にはもともと、前に突っ込んでしまうクセがあったんですね。勇気がいりましたけど、目を切ってみることで捕手を目で追わなくなり、改善できました。重心が体の中心に残って、腕が体に巻きつくようなイメージのフォームを完成させました。

そこへきて92年から左中間と右中間にあったラッキーゾーンが撤去されたでしょ。あれは大きいですよ。2レーンあった大きいブルペンが消滅したわけですからね。

それまで甲子園のホームランはラッキーゾーンに入る打球が多かった。でも、これがなくなるとそう簡単に本塁打は出ない。そうなると、捕手のリードにも影響してきます。
92年は正捕手が山田勝彦(現阪神二軍バッテリーコーチ)だったのですが、僕に限らずどの投手に対しても内角への配球が増えました。

それまでは左翼へ引っ張らせない、外角中心の配球でした。本来はそこに内角を見せないと外角のボールも効かないですから。相手も、阪神バッテリーの攻め方が変わってきたなと感じたはずです。配球が大胆になり幅が広がったと感じたはずです。

カベにぶち当たったとき、クビになるかもしれないと追い込まれた状態で自ら活路を見いだすことができました。

立ち止まらず前向きに、とにかく考えて動く。過去の失敗を無駄にせず経験として生かす。決断して挑戦することの大切さを覚えました。崖っ縁で自らを助ける術を身につけたことは今にも生きています。

次回はそんな僕がどんなふうに育ってきたのか。生い立ちからお話ししたいと思います。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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