日本一の練習量を課す高校サッカー界の重鎮と恐れられた小嶺忠敏(76)が唯一「練習をやめさせるのが大変だった」と振り返る教え子が、三浦淳寛(47)=ヴィッセル神戸監督=だ。誰もが認める努力の天才が、高校時代を回顧する。
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「毎朝5時前に起きて自主練習をやってましたね。1日も欠かさず」
寮から学校まで自転車をこぎ、真っ暗な体育館の戸を開けてボールを蹴るのが三浦の日課だった。蛍光灯がじわじわと明るくなってくる間も惜しむように、リフティングで体をほぐし、ドリブル練習をみっちり1時間。終わったころにチームメートを乗せたバスが到着し、そこから全体の朝練習が始まる。昼休みはシャワー室にこもって腕立て伏せを500回こなした。
1年生の冬に東京・国立競技場の芝を踏んでも、全国で注目されるような選手に成長しても、決しておごることはなかった。小嶺が常々言っていた言葉を、頭の中で繰り返していた。
「三浦淳寛っていい選手だなと言われるのもいい。でも、三浦淳寛って素晴らしい人間だなと言われることは、もっと大事。自信と過信は紙一重だぞ」
遠征で朝4時に出発する日は、その2時間前に体育館へ。2時出発なら深夜にボールを蹴った。それが試合当日でも関係なかった。
主将として臨んだ第71回大会(1992年度)の開幕直前。いつものように近くの公園で「朝のルーティン」をこなして宿舎に戻ると、玄関前に小嶺が仁王立ちしていたことがある。
「大会期間中くらいはやめんか」。恩師の気遣いがありがたかったが、三浦も引かない。「大丈夫です、先生。やらないとかえって調子が出ないんです」
そして、3年間の努力はこの大会で結実する。
満員の国立競技場で行われた決勝、1-0で迎えた後半13分だった。右サイドから軽快なステップで切り込んで左足を一振り。約20メートルのシュートをゴールネットに突き刺した。朝練で何度も繰り返してきた「型」だった。この大会で三浦は6ゴール、5アシストの大活躍。その後、プロや日本代表で活躍する足掛かりをつくった。
「あのシーンは自分でもびっくりするくらい自然と体が動いた。毎日やってきて良かったと心の底から思った」
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プロ引退後は指導者の道に進み、自らの経験を選手たちに伝えている。
「練習はうそをつかない。才能がなくたって、十分にやれる」
三浦だからこそ重みがある。世界的プレーヤーを多数抱える神戸だからこそ、若い選手たちの心に刺さる。
「先生がどんな言葉で、どんな立ち居振る舞いでやる気を出させてくれていたか。今でもよく思い出すよ。本当に人生の恩師ですよね」
その偉大さを、今、あらためてかみしめている。(敬称略)
【略歴】みうら・あつひろ 国見高1年から全国選手権のメンバーに入り、1年で優勝、2年で4強、3年で優勝。横浜フリューゲルスなどで活躍し、代名詞だった「ぶれ球FK」は高校時代の練習時に習得した。2020年9月から神戸監督。元日本代表。大分県出身。