「鬼門のトイレ」を欠陥とみなす司法 非合理な嫌悪感が支える自死差別 国交省案は国の大綱にも背く

By 佐々木央

国土交通省

 殺人や自死のあったいわゆる「事故物件」の取引について、国土交通省がガイドライン案を公表し、策定の最終段階に入っている。それによれば、殺人や自死、火災などによる死亡の場合、3年間は取引の相手方に告知する必要があるとされる。その妥当性について調べていて、過去に「鬼門のトイレ」に関わる訴訟があったことを知った。(共同通信編集委員、47ニュース編集部=佐々木央)

 2階建て住宅の建築を頼んだら、業者が1階のトイレを鬼門の方角に設置してしまった。それが目的物の瑕疵(かし、傷や欠陥の意)に当たるのかどうかが争点となった訴訟である。

 ここでいう鬼門とは、例えば「私にとって数学は鬼門だ」というときのそれではない。文字通り「鬼の出入りする門」という意味で、忌むべき方位とされる。艮(うしとら)、北東の方向がそれである。

 判決は「鬼門のトイレ」を欠陥であると肯定した。次のように理由を述べる。

 「入居者に不幸、難病が起こるかもしれないとの不安、懸念を与え、心理的な圧迫感をもたらすものであることを否定し難く、(中略)建築関係者においても家屋建築上この習俗的嫌忌を避止すべきものとして認識されている」

 北東にトイレを設置すれば、不幸が起き、難病にかかる。そういう不安、懸念は否定できないと、判決は言う。明治や大正時代ではない。20世紀も後半、1979年6月22日の名古屋地裁の判決である。

 鬼門のトイレを欠陥とすることは、どう考えても非科学的であり、不合理であろう。現在、部屋を借りたり、家を買ったりする人で、鬼門を意識し問題にする人はほとんどいないはずだ。

世界的彫刻家・流政之さんの作品「あほんだら獅子」。大阪の「鬼門」に当たるとされた千里ニュータウンから街の邪気を払うように鎮座する

 ▽法的価値判断というに値しない

 であるならば、自死の事実はどうか。物理的な毀損(きそん)や汚損が修復された後も、見えない傷が残るのか。

 この見えない傷を、不動産取引では「心理的瑕疵」と呼ぶ。自死などがあった物件は、心理的瑕疵ゆえに価値が低落するとされる。国交省がまとめたガイドライン案は、自死や殺人を「嫌悪すべき歴史的背景」とする判例を引用し、取引の相手方にその事実を告知する義務を定めた。現状を追認した内容だが、それは違法状態を肯定し、野放しにすることを意味している。

 どのような意味で「違法」と評価されるのか。民法は、こうした私人間の取引や家族関係などを規律する法律だが、その第2条は民法全体の解釈原理についての宣言である。

 「第2条 この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない」

 こうした不動産取引において「個人の尊厳を旨とする」とは、どういう意味を持つのか。多くの裁判例が安易に心理的瑕疵を肯定する中で、自死と個人の尊厳との関係に踏みこんだ裁判例を見たい。90年10月2日の福岡地裁決定がそれだ。

 「およそ個人の尊厳は死においても尊ばれなければならず、その意味における死に対する厳粛さは自殺かそれ以外の態様の死かによって差等を設けられるいわれはなく、それゆえ自殺という事実自体が本来忌むべき犯罪行為などと同類視できるものではなく、また自殺という事実に対する評価は心情など人の主観的なものによって左右されるところが大であって、自殺があったそのことが当該物件にとって一般的に嫌悪すべき歴史的背景であるとか、自殺によって交換価値が損なわれるものであるとかいうことは、とうてい客観的な法的価値判断というに値するものではない」

 福岡地裁決定は、自死と他の死の態様を区別し、自死によって心理的瑕疵が生じるという考え方を、個人の尊厳に照らして「とうてい客観的な法的価値判断というに値するものではない」と退けた。

 ▽生の終着点である死は等価

 学問の世界はどう見ているのか。

 横山美夏・京都大教授は「個人の尊厳と社会通念―事故物件に関する売主の瑕疵担保責任を素材として」(『法律時報』85巻5号、2013年5月)と題する論文で次のように述べる。

 「民法2条により、民法の解釈にあたっては、生の終着点である死はその態様いかんに関わらず等価値に扱われるべきであり、また、不必要な死は極力回避されなければならないが、生じてしまった死それ自体を否定的に評価すべきではないといえる」

 「自殺の事実に対する消極的評価を前提として、通常一般人が『住み心地の良さ』を欠くと感じるときは自殺の事実が瑕疵となるとする裁判例は、民法2条の趣旨に反する。同条の趣旨からすれば、たとえ通常一般人がそのように感じるとしても、まさに規範的な意味でその合理性が否定されるべきではないか」

 最後の「規範的な意味で」は説明が必要かもしれない。状況をそのまま受け入れるのでなく、一定の価値判断に基づいて、何が正しく、何が正しくないかを考察する姿勢のことだ。裁判所は迷信や俗説、非科学的な忌避感や嫌悪感に依拠せず、個人の尊厳に基づいて法を解釈・適用するべきだという主張だろう。

 横山教授は告知義務についても、同じ論文できっぱりと否定する。

 「民法2条により、売主は、相手方がその意思決定に際して個人の尊厳に反する事項を勘案できるよう助力する義務は負わない。したがって、売主は事故の事実につき告知義務を負わないというべきである」

 ▽追い込まれた側をさらに追い込む

 自死に心理的瑕疵を認める考え方は、国自身の基本姿勢にも背いている。

 すなわち自殺対策基本法第1条は「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して」と目標を明記する。逆に言えば、今の日本社会では「追い込まれた末の自死」があることを認めているのだ。

 国の自殺総合対策大綱はもっと明確だ。基本理念として「自殺は、その多くが追い込まれた末の死である」と言い切り、さらに「自殺の背景には、精神保健上の問題だけでなく、過労、生活困窮、育児や介護疲れ、いじめや孤立などのさまざまな社会的要因があることが知られている」との認識を示す。

 心理的瑕疵を認めるということは、自死という態様の死をおとしめることを意味する。賃貸住宅で亡くなった場合なら、個人の自発的選択であるとみなすことで、その損失を遺族の側だけに負担させる結果を招く。多くが「追い込まれた末の死」であるのに、追い込まれた側をさらに追い込むのだ。

 自殺総合対策大綱の基本方針は「経済・生活問題、健康問題、家庭問題等自殺の背景・原因となるさまざまな要因のうち、失業、倒産、多重債務、長時間労働等の社会的要因については、制度、慣行の見直しや相談・支援体制の整備という社会的な取組により解決が可能である」と述べる。立法や行政を含む社会の側がもっと動きなさい。そう促している。

 そもそも、欧米の多くの地域では、建物内での自死を心理的瑕疵とみなさない。日本社会での偏見・差別がにわかに是正できないなら、せめて自死が起きた場合に備えた保険制度によって、公平な負担を図るといった現実的な対応も進める必要がある。

 大綱の基本方針は、関係機関に社会的要因を解決するための「制度、慣行の見直し」を求めている。国交省は自死差別の根本に切り込み、制度・慣行の変革を目指すべきだ。

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