【仲田幸司コラム】自分をイジメた人を見返したくて野球を始めた

ガイジン扱いされた小学校時代

【泥だらけのサウスポー Be Mike(4)】 沖縄という背景に米国人とのハーフ。アメリカンスクールから日本の小学校に転入するも、イジメに遭い登校拒否にもなりました。

普通ならグレてもおかしくない環境だったと思います。そんな僕を心配してくれていたのでしょう。沖縄の親父が「お前を鍛えてやる」と言って、僕にノルマを与えました。

「明日から自宅から空港まで往復8キロくらいあるが、毎朝6時に起きて走れ」

親父は自転車で、僕はランニング。親父は夜の飲食関係の商売していて夜中の2、3時に帰ってくる生活でした。それでも毎日、僕に付き合ってくれました。これを始めたのは小学2年生のころです。

親父は母との再婚にあたっては、親族から異論もあったと聞いています。「なんでアメリカ人の子供を引き取るんだ」と反対されたそうです。それでも家族になって、マイクを鍛えてやるといって僕に付き合ってくれた。

厳しく接してくれた親父のおかげもあり、僕も学校には行くようになりました。それでも、学校内には僕としゃべるなという人もたくさんいました。でも、何人かは友人になってくれた子たちがいました。

そのうちの一人が「マイク野球しないか」と誘ってくれた。これが僕が野球を始めたきっかけなんです。

誘われるがままに野球チームに入らせてもらった。「ポジションはどこがいい」と聞かれて、それならピッチャーがやりたいと即答した。

それはなぜかというと、投手なら打者9人全員と直接対決できるじゃないですか。つまり、自分をイジメた人間一人ひとりを野球で見返したかったからなんです。

1対1でグラウンドの上で正々堂々と勝負して打ち取ってやろう。殴る蹴るではなくて野球で勝ってやろうと思ったんです。最初からそんなに球が速いわけではなかったんですよ。だから、すぐにはリベンジはできませんでしたけどね。

野球を始めることによって、少しずつ人の輪が広がっていきました。人間関係もほぐれていったと思います。自分で言うのもなんですが、僕は明るい性格だから人と和んで、徐々に友人も増えて、心が通いだしていきました。人間に黒人も白人もアメリカ人も日本人も関係ないですからね。

ところが野球を始めて数年後のことです。6年生の時、小学校の授業も教えながら専門として体育の先生もしている教師に出会いました。

僕の行っていた学校には水泳教室もあって、やってみるとめちゃくちゃ速かったんです。そしたら、その先生が「お前は五輪も狙えるから」と進学先の那覇中学の水泳部に僕を入部させたんです。

これではのちのプロ野球選手が水泳選手になってしまう!

でも、野球で小さいころに自分をイジメた人を見返したいという気持ちが心の奥底にあったんです。水泳部の顧問に「どうしても野球から頭が離れません。絶対に甲子園に行きますから野球をさせてほしい。水泳部を辞めさせてほしい」と申し出ました。

そういう事情もあって、僕は中学1年の1学期だけ水泳部。2学期から野球部ということになりました。

このころもまだ、ガイジン扱いなところは残っていましたが、野球部員としてはすんなり仲間に入ることができました。

さあ、プロの投手を目指しての道のりが始まる。そうなればいいのですが…。次回は那覇中学野球部・仲田幸司の話をさせていただきます。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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