名曲散歩/細川たかし『矢切の渡し』たまたま見ていたNHK番組から生まれた曲

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東京・神田の古いビルの2階。そこには夜な夜な紳士淑女が集まり、うんちくを披露しあう歌謡曲バーがあるという。今宵も有線から、あの名曲が流れてきた。

お客さん:お、このイントロは細川たかしの『矢切の渡し』。寅さんでおなじみ、あの江戸川の風景が目に浮かぶねえ。

マスター:1983年にリリースされ、この年のレコード大賞に輝いた名曲だ!

お客さん:矢切の渡しは葛飾区柴又と松戸を結ぶ江戸川の渡し船として、今も稼働している。

マスター:ある日、NHKのドキュメンタリー番組『新日本紀行』で、失われゆく存在として、矢切の渡しを取り上げた。

お客さん:『新日本紀行』ね、ここ最近、4Kリマスター版が放送されているよ。

マスター:当時、それを見たのが、作曲家の船村徹。すぐに車を飛ばして柴又までやってきたけど、船は陸にあげられていた。これは何とかしなければいけないと、たまたまレコード会社で会った作詞家の石本美由起に話したところ、彼も同じ番組を見ていたという。2人は意気投合、詞は4〜5日でできたという。

お客さん:偶然、同じ番組を見ていたのか。

マスター:最初に歌ったのはちあきなおみ。1976年、『酒場川』のB面として世に出た。普通なら、そのまま埋もれていくのがB面の運命なんだけど、意外な人物がこの歌をよみがえらせる。

お客さん:誰だろう?

マスター:それは梅沢富美男。彼の一座が歌謡ショーの中で『矢切の渡し』をバックに艶やかに踊っていた。さらに、その梅沢が出演した1982年のTBSドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』では挿入歌として使われ、話題を呼んだ。

お客さん:ようやくスポットライトを浴びたわけだ。

マスター:ちあきなおみの再発盤をはじめ、春日八郎、瀬川瑛子、島倉千代子など30組もの歌手が、次々とレコードを発売するなか、断トツの売り上げを記録したのが細川たかしだった。

お客さん:ちあきなおみバージョンに比べて、細川たかしが歌う『矢切の渡し』は突き抜けた明るさがあるね。そこが人々の胸に刺さったのかもしれないね。

マスター:細川たかしは前年の『北酒場』に続き、史上初の2年連続レコード大賞受賞の偉業を達成、『NHK紅白歌合戦』では大トリとして歌い上げた。

お客さん:偶然が重なってヒットにつながった歌だったんだね。

おっ、次の曲は……。

文/安野智彦
『グッド!モーニング』(テレビ朝日系)などを担当する放送作家。神田で「80年代酒場 部室」を開業中

参考:船村徹『魂の響き‐のぞみ』(潮出版社)/NHK土曜特集「そして歌は誕生した」番組制作班『そして歌は誕生した 名曲のかげに秘められた物語』(PHP研究所)