【プロレス蔵出し写真館】橋本真也の“無茶ブリ”に応える若き天山広吉 いい人キャラの片鱗

石段のうさぎ跳びで下に到着した山本に「おかわり」を要求する橋本(91年3月=山形・酒田、東スポWeb)

「山本、もう1回」。橋本真也にそう指示されているのは、デビューして間もない付き人の山本広吉。のちの天山広吉だ。

今から30年前の平成3年(1991年)2月2日、山形・酒田市内でのひとコマ。

この日は、新日本プロレスの興行が市営体育館であったのだが、試合前、橋本が山本を外へ連れ出した。雪がちらほら舞う中、一緒にランニング。なぜか山本はトランクス一丁だ。その後、土手の石段をうさぎ跳びで降りるよう命じられた山本が下まで降りると、冒頭の橋本のもう1回指令が飛び出した。

もっとも、これは山本の反応を見る冗談だったようで、うさぎ跳びは免除されたが、雪道へのヘッドスライディングに変更された。そして、トレーニング(?)の最後の締めは、土手のわきを流れる最上川での水浴びだった。

山本は笑顔でこれらをこなしていたが、寒さが厳しい冬の東北。この日の酒田の気温は午後5時で0・5度だった。

天山を〝かわいがって〟いたのは橋本ばかりではない。

橋本がトニー・ホームとの異種格闘技戦に敗れ、長期欠場中の91年4月の沖縄巡業でのこと。1日だけオフがあり、レスラーとリングスタッフ、そして参院議員だったアントニオ猪木も加わり「アントン牧場」から肉を取り寄せ、糸満市の名城ビーチでバーベキューパーティーが催された。

久々に選手たちの前に顔を見せた猪木が、所用でひと足先に席を立つと、その後の主役は天山だった。獣神サンダー・ライガーが掘った穴に顔だけを出した状態で埋め込まれ、口紅を塗られた上に、額につまようじを10本ほど刺され、髪の毛に見立てた海藻を頭に乗せられるなどイタズラのされ放題だった。

この額につまようじを刺すのは、実は天山の持ち芸だ。

「昔、ライガーさんに六本木に飲みに連れて行ってもらった時、そこに藤原組の選手もいたんですよ。そこで、藤原組の若手がそれをやってて、ライガーさんに『できるか?』って聞かれたんで、やってみたらできました」と明かした天山。

なにはともあれ、若手時代の天山は〝イジられ〟キャラ全開だった。

ところで、そんな天山がブレークしたのは95年。1月4日、東京ドームの凱旋帰国第1戦で体重120キロに肉体改造され、不敵な面構えに変貌した〝猛牛〟天山は観客を驚愕させ、マウンテンボムで中西学に圧勝した。

2月3日の札幌大会では、最年少の23歳で橋本のIWGPヘビー級王座に初挑戦。その後2月12日、後楽園ホールで行われた平成維震軍主催興行で、維震軍と新日正規軍の誘いをソデにして蝶野正洋との合体を表明。その日の夜の新日本主催の後楽園大会では蝶野、ヒロ斎藤とタッグを組み、長州力、橋本、平田淳嗣組と対戦。

空爆頭突きを長州に見舞い初のピンフォール勝ちを収め、リングに大の字の長州を踏みつけ仁王立ち。橋本は、団体を裏切り蝶野と合体したことに激怒。天山に「選手会を永久除名」の処分を下すことを明らかにした。

とはいえシリーズ最終戦では長州、馳浩、佐々木健介組と激突し、天山は健介をフォールし、シリーズ中に長州、馳、健介といったエース級を次々と破る偉業を達成した。

この後、天山は蝶野、斎藤らと極悪軍団「狼軍団」を結成しトップレスラーへと成長する。

さて、近年は自身のユーチューブチャンネル等で過去の出来事を語るのがトレンドになっているが、天山も今年、蝶野チャンネルに登場し、記憶に残っている試合として長州から初フォールを奪った試合と明かした。

動画等で、天山の人の良さが垣間見られ、最近は〝いい人キャラ〟が定着している(敬称略)。

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