【仲田幸司コラム】進学校を目指していた中学時代 興南はダメ元で受験

当時から興南高校は野球強豪校として有名だった

【泥だらけのサウスポー Be Mike(5)】1970年代前半の沖縄という時代背景もあり、米国人とのハーフである僕はいじめの対象にもなりました。ただ、当時は数少なかった友人の中の一人が、小学2年の時に少年野球に誘ってくれました。それが人生の流れを変えました。

徐々に人の輪が広がって、自分もその輪の中に入っていると実感できた。ハーフだからというカベを感じることも少なくなっていきました。

小学6年生時の恩師との出会いで中学1年の1学期は水泳部に入ることになりました。それでも、野球への情熱を大人の前で口にして中学1年生2学期から野球部に入部しました。

中学時代も一生懸命に野球をやったら、仲間もそれなりに増えていきました。親父とやっていた空港まで往復8キロ走る日課も、ずっと続けていました。

周囲にはその事実を分かってくれる生徒もいて「マイクすごいな」と言ってもらえることもありました。努力を知ってくれる仲間の存在もあり、チームの中でも少しずつ認められていったと思います。

親父は僕に対してグレてほしくない。そういう一心で接してくれていたと思います。いじめに遭って変な方向にそれていってほしくない。そういう思いを持って、常に僕を見守りながらも厳しく接してくれました。

中学時代も投手志望でプレーしました。でも、僕はそのころはノーコンでストライクも入らなかったので、エースにはなれませんでした。左投げだったので守備位置も限られますし、ファーストを守っていました。

そうですね。投手としてはチーム内では3番手くらいだったかなと思います。学校自体もそんなに野球の強豪というチームではなかったですからね。僕自身が目立つということもなかったです。

そもそも野球でメシを食えるなんて想像もしてませんでしたからね。頑張って受験勉強していたくらいですよ。

那覇高校という沖縄では学力1、2番のクラスの高校を受けようと思って必死に勉強に励んでました。親父も体育会より学問派でしたしね。

ただ、何においても根性だけはつけてやろうという思いでやってくれてはいましたけどね。そうする中で中学3年の中体連の大会が終わって、もうあとは受験を待つだけの身だったわけですよ。那覇高校を目指してね。

で、とあるときですよ。小学2年で僕を野球に誘ってくれた友人が、また情報を持ってきてくれました。中学時代も一緒に野球をやっていた友人です。

その子が「マイク今度、興南高校で野球のセレクションがある。一緒に受けに行かへんか?」と誘ってくれたんです。

僕はそんなことすら知らなかったですからね。もうすでに当時から興南高は甲子園に出場している有名校。いろいろな他府県からも優秀な選手が集まってくるのは知っていました。

そのころはまだ特待生の制度があった時代です。でも、僕は中学野球界では鳴かず飛ばずの無名校の無名選手です。受かるわけないとは思っていましたが、誘われたので「ああ、行こう行こう」ということでダメもとで受験したわけです。

投手の志願者は200人くらいいましたね。その中から3投手だけ特待生で獲得するというわけです。

ブルペンは5レーンありました。そこで1人、30球ほど投げるんです。僕自身、確かに球は速いなとは思いました。ところが、ストライクがまったく入りませんでした。こんなの受かるわけないなと。そう思っていました。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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