「あの子たちはどんな大人に」 アフガン戦争の終結 現地で撮影した山頭範之さんが思い語る

まき拾いに行く子どもたち(山頭範之さん撮影)

 9.11の米中枢同時テロが引き金となり、約20年続いたアフガニスタン戦争が終結した。駐留米軍が8月末で撤退。イスラム主義勢力タリバンが復権し、現地の情勢は混迷を深める。かつて戦時下のアフガンで難民や民衆の姿を撮影した長崎市のカメラマン山頭範之さん(47)が、アフガンの今について語った。

 2001年9月11日。米中枢同時テロは世界を震撼(しんかん)させた。ハイジャックされた航空機2機がニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込む映像をテレビで見ながら、「これは戦争になる」と直感。間もなくして米軍によるアフガニスタンへの空爆が始まった。
 同年10月にパキスタン、11月にはアフガンに入国。国内は既にボロボロの状態だった。空爆のせいだけではない。アフガンはそれまでの約20年間ずっと戦争をしていたからだ。
 1979年、旧ソ連が侵攻。89年の撤退まで戦争状態だった。その後は民族間の内戦に突入。米国と戦争になる約20年も前から、アフガンは戦闘状態にある。だから若いアフガン人たちは、戦争のない平和な祖国の姿を知らない。
 アフガン入国後、南部の都市カンダハル周辺では空爆が続いていた。打ち上げ花火より大きく、腹に響くような爆音。地面に開いた直径数十メートルほどの穴を見たことがある。「これが戦争か」と思い知らされたが、現地の人々の日常生活が完全に失われてしまっているわけではなかった。多くはないがバザールには食料品が並び、子どもたちは無邪気に外を駆け回っていた。

空爆の跡の周囲で座り込む男性(山頭範之さん撮影)

 出会った難民や民衆にカメラのレンズを向けると、彼らは口々にこう言った。「今起きている戦争の現実を世界に伝えてほしい」。当時はまだ職業カメラマンではなかったが、不思議と使命感のようなものが芽生えた。「戦争を止めたい」と本気で考えるようになった。
 帰国後、撮った写真を現像し、メディアに売り込んだが相手にされなかった。優れたアマチュア写真に贈られる「土門拳文化賞」の募集を知り、アフガン難民や民衆を撮影したモノクロ30枚の組み写真「October7-アフガニスタンの歌-」を応募。第8回受賞作に選ばれ、そこで初めて「カメラマン」になった気がした。タイトルの「10月7日」は米国による空爆が始まった日。
 その後、2002、04、05年に数カ月ずつアフガンを訪れた。多くの人たちに出会った。両足が不自由な男の子もその一人。地雷か爆撃で足を失ったとばかり思っていたが、よくよく話を聞くと事情が違った。ポリオ(小児まひ)が原因だった。
 彼は3歳の頃、ポリオを患ったが、地域の小さな診療所ではたいした治療はできなかった。以来、後遺症で自分で足を動かすことはできない。長い戦乱によって、アフガニスタンは荒廃し、人々の生活は困窮を極めた。もともと遅れていた医療はさらに遅れた。彼の年代にポリオ患者は多い。それは彼らの幼少時代、内戦が最も激しかったことを示している。
 アフガン戦争が終結し、タリバンが復権した。この20年という月日は一体何の意味があったのかと思う。アフガンで誤って地雷地帯に足を踏み入れてしまいそうになった時、遠くから、足元に銃を撃って「危ないぞ」と警告してくれたのはタリバンの兵士だった。逆に、身柄を拘束されたり、銃を突きつけられたりした相手はいずれも米軍。どちらが正義でどちらが悪か、今も判断がつかない。
 いつの時代も、戦争によるしわ寄せを受けるのは女性、子どもなど生きる力の弱い人たちだ。あの頃、写真を撮らせてくれた子どもたちがどんな大人になり、どんな思いで生きているのか。いつか再びアフガンに行かねばならない、そう思っている。

 【略歴】やまがしら・のりゆき 長崎市生まれ。県立長崎北高から北海道・帯広畜産大に入学。大学休学中の2001年、米中枢同時テロ直後のアフガニスタンに入り撮った写真が土門拳文化賞を受賞。03年にはイラク戦争終結後のバグダッドに3カ月間滞在し、撮影活動をした。現在、サッカーJ2のV・ファーレン長崎を撮り続ける。

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