創業122年を迎える中区の料亭「羽田別荘」。原爆で壊滅するも当時の女将が女手一つで復興させてきました。そして今、新型コロナという新たな危機に立ち向かっています。
(羽田悦子さん)
「どうぞ、お部屋の方御覧になってくださいませ。」
広島市中区舟入町の料亭「羽田別荘」。商談やお祝いの席など特別な日に足を運ぶ人も多く、四季折々の顔を見せる庭園を見ながら食事を楽しむことができます。
(羽田さん)
「今もこの滝はございますけど、戦前の庭の様子で今よりも庭が広大で」
しかし、長引く新型コロナは老舗料亭にも影響を及ぼしています。
(羽田さん)
「宴会をしていただくのが一番ありがたいがそれもできない。これから先をどういうふうに見据えてよいのか」
創業は1900年。初めは小さな茶屋として始まります。
そこから徐々に規模を拡大し、敷地内には動物園なども作られ連日、多くの人でにぎわいました。
(羽田さん)
「これは少女歌劇の公演中の写真です」
さらに、1918年には訪れる人により楽しんでもらおうと「少女歌劇団」も結成。
多いときには50人以上の団員が所属し、料亭の庭園だけでなく日本各地、さらには台湾や満州でも公演を行いました。
しかし・・・第2次世界大戦を機に劇団は解散。店も戦争の渦に巻き込まれていきます。
(羽田さん)
「娯楽的なもの、歌舞音曲は一切全部自粛になって、(店も)軍にほぼ接収された形で商工宿舎のようになっていた。」
そして…爆心地からおよそ1キロの場所にあった羽田別荘は原爆で全焼。
敷地内では従業員など約90人が犠牲になりましたが、少し離れた自宅にいた当時の女将・ミチエさんは助かりました。
(羽田さん)
「裏手までまだうちの敷地があって、この築山の裏側に自宅があって、その裏側にいましたので、
ミチエさんは助かって爆心地の影になるので、(当時の店主)敏郎のほうはこのへんにいたので直接被爆して亡くなったそうです」
生き残ったミチエさんは店を惜しむ周りの声にこたえ、再建に向け動き出します。
そして、原爆投下から3年後・・・女手一つで営業を再開させたのです。
(羽田さん)
「どこをどうしたら物事がうまくいくかすごく頭に入っている人で、ミチエさんだから復興できたと思います」
ミチエさんは病気のため56歳という若さで亡くなり、そのあとを継いだのが悦子さんです。
女将になって約50年ーお店の営業は大きく制限されています。
予約は緊急事態宣言の前に入っていた客のみで酒の提供はなし。
週に2日か3日しか営業していないため売り上げは激減しました。
それでも先代の努力を思うとくじけてはいられないと話します。
(羽田さん)
「なにもなくなったのを母が復興させましたので、それから考えれば建物がなくったわけでもはないし、
こういう時代に合わせて何とか細く長くやっていければいいなと」
去年の冬からは料亭の味を家でも楽しんでもらおうと一部の料理は持ち帰りできるようになりました。
コロナが収束しお客様を「笑顔」で迎えることができる日までー。
(羽田さん)
「お部屋にご案内すると、みなさんこんなところがあったのと、
感動というか驚きというか口に出されるのでそいういうものは守りたい」