朝鮮に「核」を持たせたのは米国 ③ 「走る列車」に対する無作為 6者会談の中断と核実験の断行

朝鮮が外務省声明を通じて核兵器保有を宣言したのは2005年2月10日。 2003年9月4日の国の立法機関である最高人民会議で核の軍事的利用が決定されてから17ヶ月後だ。その間に米国が朝鮮の核活動を凍結する機会と名分は十分にあった。

プルトニウムの生産を無視

核兵器保有宣言の1年前、2004年1月6日から10日まで米国スタンフォード大学のジョン・ルイス教授とロスアラモス国立核研究所ジークフリード・ヘッカー前所長が朝鮮を訪問し、寧辺核施設を特例的に視察した。朝鮮側の招待によるものであった。

一行は使用済み燃料棒の再処理で核兵器製造の材料となるプルトニウムが生産された事実を確認した。

これについて朝鮮側は「我々の核活動に対する透明性を確保することに目的があった」と明らかにし、「透明性は現実的な思考のための基礎」であり「朝米間の核問題の平和的解決のための実際的基礎になると考える」(外務省スポークスマン)と述べた。民間人が目撃した事実をブッシュ政権がどのように受け止めるかを見守ることが、当時の朝鮮の立場であった。

その年の2月25日から28日まで北京で第2回6者会談が開かれた。

北京の釣魚台迎賓館で行われた6者会談(C)朝鮮新報

朝鮮は核問題の平和的解決のための一括妥結方式による同時行動の最初のステップとして、「核凍結」対「補償」を提案した。

米国は、第1回会談における主張を繰り返し、提案に対する返答を避けた。朝鮮側が一貫して否定する「高濃縮ウラン計画(HEUP)」説を既成事実化し、これを含めて「完全かつ検証可能で不可逆的な核放棄(CVID)」が実現すれば、朝鮮側が憂慮する事案を議論できると頑なに自説にこだわった。

核放棄の範囲と内容について双方の見解に相違があれば、当然ながらその最初のステップである核凍結も合意することができない。

「ブッシュ・ドクトリン」を掲げて、大量破壊兵器の開発と拡散を厳重に取り締まるとしていた米国が現実として確認されているプルトニウム生産は無視しておいて、相手が否定する高濃縮ウランに固執し査察しなければならないと言い張るのは、整合性がない。

米国代表団の団長であったジェームズ・ケリー国務省次官補の言動がまさしくそうであった。

会談後、朝鮮側が明らかにしたところによると、彼は「最初から問題を解決しようという真摯な姿勢はおろか、自分たちは今回、朝鮮側と交渉するつもりはないと躊躇なく述べて、 事前に準備したペーパーをただ読み流し、寄せられた質問には答えず、いかなる誠意を見せなかった」(外務省スポークスマン)という。

第2回6者会談は、議長国である中国が声明を発表して終了した。議長声明は参加国が核問題および関連する関心事を扱う上で「相互に調整された措置をとることに合意」したという一節があるが、それは多国間対話の方向性に言及しただけで核問題の当事国である朝米を含む6者がどのような措置をとるかについて合意がなされたわけではなかった。

朝鮮代表団の団長を務めた金桂冠外務次官は会談後の会見で議長声明を尊重する立場を明らかにしつつ、その内容については「不満である」と評価した。そして朝米同時行動の最初のステップとして、朝鮮側が提案した核凍結は「走る列車を停止、停車させる段階」であると述べた。

国際的圧力形成のたくらみ

6者会談が始まってからも、米国は列車が走るのを傍観していた。

ブッシュ政権が追求した6者会談のカタチは、そもそも問題を解決するための場ではなく、「HEUP」説で朝鮮を「被告席」に座らせ「国際的圧力」を課して屈服させるための枠組みであった。

いわゆる「1対5」の構図だ。そのために遅延策を駆使した。会談を交渉の場ではなく、ただ時間を浪費する場とすることをいとわなかった。

特に米国で大統領選挙が行われる2004年は、「北朝鮮に圧力をかける多国間対話」を政権の外交成果としてアピールしようという思惑が働いた。成果なく終わった第2回6者会談についてもブッシュ政権はまるでCVIDに関する自らの主張が支持されたかのように喧伝し、世論をミスリードした。

自衛的核抑止力を保有するという決断が下されてからは、会談の停滞と核問題解決の遅延が、核の軍事的利用のための活動を促進させる時間を朝鮮に提供することになった。米国が時間を引き延ばすほど、朝鮮の交渉力が高まった。

また平和外交の能力と手腕においても朝鮮は米国を上回っていた。2004年当時、朝鮮は米国の遅延策を逆手にとって情勢変化の主導権を握っていた。

その年の4月、北京で朝中首脳会談(金正日総書記・胡錦涛総書記)が開かれた。中国側は「朝鮮の合理的な懸念が当然解決されなければならない」という立場を示し、朝鮮側は「忍耐と柔軟性を発揮し、6者会談に積極的に参加する」と表明した。

5月には小泉純一郎首相が再び平壌を訪問、二度目の日朝首脳会談が開かれた。

6者会談が継続している期間に、その参加国が朝鮮と2者会談を行うことを、米国は露骨に妨害することができない。一方、朝鮮は平和のための多国間対話の基調を維持しながら、米国を除く参加国との二国間関係を進展させていった。

首脳会談によって6者会談の議長国である中国もCVIDの主張に正当性がないことを認めていることが公になり、日本の首相の平壌訪問など米国の朝鮮敵視政策に相反する国際情勢が形成されても、ブッシュ政権は多国間協議の枠組みを放棄することができなかった。朝鮮が「忍耐と柔軟性を発揮し、6者会談に積極的に参加する」立場を表明している以上、「超大国」が自暴自棄の振る舞いをすることはできなかった。

6月22日から26日まで北京で行われた第3回6者会談で、米国はCVIDの表現自体を封印し、朝鮮の核凍結に対する米国側の行動計画を盛り込んだ「前向きな提案」なるものを示した。

一方、朝鮮は核凍結の具体的な案を提起した。凍結の対象には、寧辺核施設の廃燃料棒再処理によって生産されたプルトニウムだけでなく、核兵器をこれ以上つくらず、その移転も実験も行わないことが含まれた。

会談期間、朝米双方は「ほぼ2時間半の間、真摯に向かい合い会談した」(朝鮮外務省スポークスマン)という。6者会談は、その回数を重ねるごとに、核問題の当事国である朝米の交渉に関連国が同席する「2対4」の構図が浮き彫りになった。

「9.19」合意と繰り返された遅延策

しかし、第1期ブッシュ政権下では「核凍結」対「補償」の合意はなされなかった。

2005年1月に発足した第2期ブッシュ政権は、大統領就任演説と一般教書演説、国務長官の議会承認聴聞会における発言などを通じて「暴圧政治の終息」を目標として掲げ、朝鮮を「暴圧政治の前哨基地」と呼んだ。朝鮮の核兵器保有宣言が出たのは、その翌月のことだ。

この宣言によって核交渉における朝鮮の交渉力は一段と高まった。対話のチャンネルを閉ざすことができなくなった米国は、6者会談の枠組みの中で妥結点を探るしかなかった。

米国が「暴政の前哨基地」発言を撤回することで開かれた第4回6者会談(7月26〜8月7日、9月13日〜19日)で6者の合意文書が初めて発表された。

朝米間の敵対関係清算と信頼関係構築によって核問題を解決することを明示した9.19共同声明について、朝鮮は「我々の一貫した立場が反映」(外務省スポークスマン)されたと評価した。

しかし「ブッシュ・ドクトリン」に沿った論理と主張を否定する共同声明の履行は、声明発表直後に発動された米国の対朝鮮金融制裁によってブレーキがかかる。

朝鮮の核開発に対して効力がない遅延策が繰り返された。そして米国はさらに厳しい状況に追い込まれていく。

朝鮮の外交官は圧力を受けながら核放棄の問題を議論することはできないとして、マカオの銀行バンコ・デルタ・アジア(BDA)の資金凍結問題が解決すれば6者会談を再開されるという立場を堅持し、朝鮮人民軍は「朝米対話が行われる期間、長距離ミサイル試射を臨時停止」するという1999年の合意に基づいて、2006年7月5日、軍事訓練の一環としてミサイルを発射した。

5日後、これを厳重視する国連安保理決議が米国主導で採択されると、朝鮮は自衛的権利に属するミサイル発射を「脅威」と罵倒する国際的圧力攻勢を排撃し、より強力な物理的な措置をとることを予告した。

2006年10月9日、朝鮮は地下核実験を行った。

2日後、ワシントン・ポストに掲載されたクリントン政権時代の対朝鮮政策調整官ウィリアム・ペリー氏の寄稿文は「チャンスを逃した後任者たち」を厳しく批判した。

「朝鮮の核実験は、ブッシュ政権の対朝鮮政策の完全な失敗を明らかに示した。ほぼ6年にわたる期間、この政策は、上辺だけ装飾された美辞麗句と無作為、そして怠慢の奇妙な組み合わせであった」

6者会談は、朝鮮初の核実験から2ヶ月が過ぎた2006年12月、金融制裁解除の議論、解決を前提に15ヶ月ぶりに再開される。

しかし、それ以降も朝米対話は中断と再開が繰り返され、朝鮮の核抑止力は絶えず強化されていった。米国が朝鮮敵視政策を強化するほどに「走る列車」には加速度がついた。

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