長崎に愛された一生 越中哲也さん死去 軽妙な語り口で人気

市民に展示品について解説する越中さん(左から3人目)=2019年5月、長崎市、長崎純心大博物館

 長崎の顔で、長崎の生き字引、郷土史家の越中哲也さんが亡くなった。戦後、原爆から復興する長崎と共に歩み、このまちの誰もが知る存在へ。長崎を愛し、長崎に愛された一生だった。
 著名な郷土史家として歩んだ、この人の原点は何だろう。2019年12月から1年にわたり、その人生を振り返る聞き書き「ここにおります」を本紙で連載した際、私たちのよく知る「越中先生」に至るいくつもの転機を教えてくれた。ただ、こうしたいという願望や動機があったのかと尋ねても、いつもはぐらかされ、「すべて先輩方のお導き」と口にしたのが印象深く残っている。
 1921年生まれ。父は「産女(うぐめ)の幽霊」で知られる光源寺(長崎市)住職。長男だったが、厳しい母の教育方針から幼少期は祖父母と暮らし、昔の侍のようなしつけを受けた。
 旧制県立長崎中を卒業して京都の龍谷大に進み、語学や仏教哲学を学んだ。しかし大学2年の43年、学徒動員により軍に招集される。この時の「大学で何もしていない」という思いが後の郷土史研究への意欲につながる。「半端だったから、勉強せないかんというのがあったのでしょう」
 復員して戻った長崎は、原爆で何もかもなくなっていた。仕事も娯楽もない状況で、唯一の居場所となったのが県立図書館だった。古賀十二郎、渡辺庫輔、片岡弥吉、林源吉、永島正一…。今では伝説のような郷土史家が図書館に集い、雑談していた中に入れてもらい、教えを受けた。
 並々ならぬ好奇心と人との出会いとが、越中さんの運命を切り開いていった。49年に少年保護観察官に任命されると、業務で巡った県内各地で郷土史家らと出会い、地域の歴史を学んだ。55年に長崎市職員となり、市立博物館やグラバー園の整備や運営、文化財の調査研究に携わり、観光都市・長崎の土台を築いた。「あの頃は若い人は戦争で死んで私以外におらなかった。偉い先輩方から『おまえがせろ』って言われたら何でもせないかんかった」
 郷土史の伝道師としても活躍。30代初めには早くも新聞に郷土史をテーマに連載を持った。長崎くんちや精霊流しのテレビ解説、史跡巡りの案内などを担当。史実と共にロマンを大事にし、肩肘張らない軽妙な語り口がお茶の間の人気を集めた。
 べっ甲やちゃんぽん、西洋料理など、あまり研究されていなかった長崎独特の文化も調査。83年に純心女子短大の教授に就くと、それまでの蓄積を長崎学として学術的に体系化し発展させた。
 長崎学とは何かと尋ねると、「長崎の歴史が日本の文化にどのように影響を与えてきたかを考えること。長崎そのものが一つの文化で、長崎人が集まって世間話をすることが長崎学」と答えが返ってきた。
 長崎市桶屋町にあった旧長崎歴史文化協会には、理事長の越中さんを目当てに多くの人が訪れ、歴史談議に花を咲かせるのが常だった。同協会が2019年3月に閉会した後も光源寺では越中さんを囲んだ日曜の茶話会が続いていた。
 生前、長崎のまちについて「大きな家庭のように感じていた」と語っていた越中さん。その朗らかな姿に市民の多くも何か安心感のようなものを覚えていたのではないか。その一人として、越中さんがいなくなった今、ただただ寂しい。

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