南海「百万ドルの内野陣」飯田徳治が契約金で最初に買ったものは

【越智正典 ネット裏】南海、国鉄の名一塁手となる「ホトケのトクさん」、飯田徳治をスカウトしたのは南海の名将鶴岡一人である。1963年、後楽園球場でのオールスターゲーム第1戦。試合前の選手紹介が終わり、列がほどけると、鶴岡は法政二高の俊英、61年巨人入団の「赤い手袋」柴田勲に声をかけた。

「おかあさん、お元気か。よろしゅう言うてくれ」。選手スカウト自由競争時代、鶴岡は監督兼、いまでいうGMで、多忙だったのに横浜市中区本牧の柴田の家に32回も通ったが巨人に持って行かれた…。それなのに万事このようであった鶴岡の人柄に惹かれた飯田徳治の父親は息子の南海入団を快諾した。

飯田は神奈川の浅野中学の投手兼一塁手。戦時下の38年夏、第24回大会の甲子園に出場(5対3敦賀商業、0対1平安中学)。翌39年春もセンバツ甲子園へ(2対4北神商業)。卒業後、東京鉄道管理局に奉職。千葉県津田沼機関区に配属になった。まだ汽車の時代で仕事は石炭ガラの処理だった。グラウンドも敷地は石炭ガラ。ゴムまりを探して来てぶつける。不規則にはずむ。それをつかむ。

群馬大学医学部講師小山啓太(旭川実業、立正大学、日米大学野球選手権大会では全日本の医務と通訳を担当。エンポリア大学、アトランタ・ブレーブスの医務、トレーニングコーチ)は「地面にバウンドさせたボールをキャッチしよう。これが脳を育て、からだをつくる」とこどもたちや父兄に呼びかけているが、小山先生にもチビッ子たちにも飯田の練習と実戦プレーを見せたかった。

のちに南海の内野陣は三塁蔭山和夫、遊撃木塚忠助、二塁は三塁から回った鶴岡一人、一塁飯田徳治で「百万ドルの内野陣」と呼ばれることになるのだが、飯田がどんな球でも捕ってくれるので、むずかしい打球にも思い切って飛び込んで送球できたのである。42年、飯田は鉄道野球の名門東京鉄道局の一塁手で第16回の都市対抗全国大会に出場。広畑戦で5打数2安打、全京城戦で5打数3安打…。打率5割5分6厘で打撃賞を受賞した。

46年12月24日、飯田はスシ詰め列車のデッキにぶらさがって横浜を発った。「正月野球」をやるので来るようにと通知があったのだ。

南海の中百舌鳥の合宿所に着くと「押し入れにフトンが入ってます。疲れたでしょう。ゆっくりお休みください」。が、飯田は寒くてねむれなかった。フトンに綿が入っていなかったのだ。飯田は契約金で最初に闇市で綿がちゃんと入っているフトンを買った。大阪も闇市時代で、焼け残った家の板塀をはがして薪にして一束10円で売っていた。お粥が5円(大阪春秋9号)。

「正月野球」が終わり飯田は入団第1年の47年の開幕第1戦にのぞんだ。4月18日甲子園球場での阪急戦。まだ1リーグ時代で、大阪ミナミの大阪球場(大蔵省煙草専売局の跡地)も50年9月12日にならなければ開場しない。この年阪神が優勝。監督、投手26勝12敗、最高殊勲選手若林忠志は46年、プロ野球復活が決まるとグラブを風呂敷に包み、宮城県石巻の家を出ている。飯田は打順6番、誠実な歩みを始める。
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