アジア系コミュニティの今(5)=コミュニティーの顔『美洲時報』=台湾編〈7〉

© Nikkey Shimbun

美洲時報の資料室で創刊年の新聞のとじ込み版を持つカタリーナさん

美洲時報の資料室で創刊年の新聞のとじ込み版を持つカタリーナさん

女の細腕が救った新聞社閉鎖の危機!

 「新聞が大好き。デジタル化された読み物にはなじめない高齢者のためにも、新聞社の営業再開を決めました」。太陽のように輝く笑顔で周囲を魅了するのが、『美洲時報(Chinês América Times)』代表の斯碧瑤さん(スー・ピーヤオ、以下通称カタリーナさんと記す)だ。
 聖市リベルダーデ地区にある事務所を訪ねると、カタリーナさんが最初に連れて行ってくれたのが、過去の新聞が所蔵された資料室だ。
 創刊年1983年の新聞のとじ込み版を開く。創刊号に続き、10月4日の第一号がきれいに収められている。白黒印刷が基本でありながら、『美洲時報』の前身である新聞名『美洲華報』の赤字印刷は、今も華やぎが色あせない。
 『美洲時報』は2017年11月1日に発行をスタートさせた。その2カ月前に、諸事情から『美洲華報』が閉鎖され、代表をはじめ、従業員も解雇されることになった。
 『美洲華報』は台湾系コミュニティの顔として、38年前から台湾や香港、広東からの繁体字の中国語を読める読者を中心に愛読されてきた。コミュニティの情報やブラジルのニュースを繁体字で読みたい一世移民がまだ存在する中、新星の『美洲時報』の代表として白羽の矢を立てられたのがカタリーナさんだった。

アスンシオンを経てサンパウロに

 カタリーナさんは1950年に台北で生まれた。1978年、28歳の時に2歳年上のご主人と2人で日本に渡航し、ブラジルの観光ビザを取得した。日本移民の間でもよく知られたリベルダーデ地区のホテル・バロン・ルーのオーナーが、カタリーナさんの姑の兄弟で、その妻は日本人だった。
 当時は台湾人もブラジルのビザは日本で取得する必要があり、ビザを取得するまでの1カ月半は東京に滞在し、ルー氏の親戚にも助けられた。渡伯前からサンパウロにいた親戚を通じてブラジルの情報は聞いていたが、本当に食べていけるかは未知数だった。
 「舅と姑に、『もし食べていけなかったら困るので、2人の子どもは私たちに預け、最初は夫婦だけで南米に行き、生活できなければ戻ってきなさい』と送り出されました」とかつてを振り返る。今年100歳の姑は今も台北で暮らし、日本語が第一言語である。
 ビザの有効期限内はサンパウロで過ごし、その後、永住ビザを取得するため、一旦パラグアイに移住した。約5年間のアスンシオンでの生活は、最初はレストランとペンションを経営し、その後、雑貨の卸販売を始めた。
 当時はブラジル人やアルゼンチン人の観光客でにぎわい、昼食を食べる暇もないほど商売は繁盛した。台湾を発ってから1年後、4歳の息子と1歳半の娘を呼び寄せた。
 「任天堂のファミコンが飛ぶように売れました。私はゲームができないので、5歳の息子がお客さんに、様々なカセットを取り換えて色々なゲームして見せ、セールスしてくれましたよ」と微笑んで懐かしむ。
 商売に忙しく落ち込む暇もなかったが、パラグアイ生活は、家族4人の生活で、親せきや友人もおらず、特にスペイン語には最初は苦労した。お客さんに会計を意味する「ラ・クエンタ」と言われた時、清涼飲料水の「ファンタ」に聞こえ、レジカウンターまでファンタを持ってきたこと等、今となっては笑い話がたえない。(大浦智子記者、続く)

『美洲時報』の社内に置かれた新聞
1983年10月4日の『美洲華報』第一号