【仲田幸司コラム】「マイクのおかげで甲子園に」先輩たちの言葉が嬉しかった

2年夏からエースに

【泥だらけのサウスポー Be Mike(8)】基礎体力の鍛錬に努めた1年生の夏を乗り越え、新チームでは公式戦での登板も経験させてもらいました。春になり新1年生が入部して、2年生投手として僕も戦力になっていきました。

結果も伴うようになり、ちょこちょこと頭角を現すようになったと表現すればいいのでしょうか。2年の夏の県大会を戦うころには、僕はチームのエースになっていました。

ただ、押しも押されもせぬエースというわけではありません。夏の県大会の序盤で僕は11個だったかな、10個以上の四死球を出してしまった試合がありました。リズムは悪かったと思いますが点数としては意外に取られず、試合にも先輩たちの頑張りで何とか勝てたんです。

試合中ですが、監督がベンチ前で円陣を組むときに僕だけその輪から外されるということがありました。監督から「お前だけちょっと向こうに行っとけ」ということでした。

気になるので野手に聞きました。すると監督がこんな話をしていたんだと教えてくれました。

「今、マイクはめちゃくちゃつらいと思う。でも今、このカベを乗り越えないとマイクは本当のエースになれない。だからお前ら、辛抱してやってくれ」

その試合、僕は最後まで投げさせてもらいました。その後の試合にも勝ち進み、夏の県大会で優勝することができました。沖縄県代表として甲子園に出場することが決まりました。

3年生たちは泣いて喜んでくれました。「ありがとう。マイクのおかげで甲子園に出られる。本当にありがとう」って、先輩たちが僕を抱きしめてくれました。

僕は米国人とのハーフです。子供のころにはいじめられていました。ボコボコにされたこともありました。そんな僕が一緒に戦った仲間に「ありがとう。マイクのおかげ」と言ってもらえたんです。甲子園出場を決めた瞬間、周りに認めてもらえた気持ちになりました。

沖縄県にはプロ野球の球団がありません。県民は甲子園に出場する高校野球のチームを地元のプロ球団のように応援してくれます。

僕が中3で興南高のセレクションに受かった後、入学を待つまでの期間に家から7、8キロあるバッティングセンターに走って通っていた時期がありました。

そこは沖縄で唯一、硬式球が実打できることで有名なバッティングセンターでした。トスバッティングのようにベース上にポンと球が上がるような機械でしたが、硬球に慣れようと毎日通いました。

コインを買って打つ。それを繰り返すのですが、毎日通うもんだから、そこのオーナーさんから「君、毎日来てるね。学校どこや」と声を掛けられたんです。

僕が那覇中から興南高ですと返答するとそれは喜んでくれました。

「おお、興南か。大したもんや。名前は? 仲田くん。毎日、走ってきてくれてるんか。来た時にはスタッフに言うとくから、コインを自由に使っていいぞ。好きなだけ打てばいい」

それからも毎日、通わせてもらいました。1回25~30球くらいを5、6セット練習させてもらいました。応援していただいてありがたかったです。

そんな県民の後押しを一身に受けて、僕は初めての甲子園を経験することになります。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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