女子大生ブームの扉を開けた宮崎美子、いまのキミはピカピカに光って! 2021年9月29日 宮崎美子のアルバム「スティル・メロウ ~40thアニバーサリー・アーカイブス」がリリース

80年代を彩った女子大生ブーム

かつて、女子大生ブームがあった。

火付け役は、1981年10月にラジオの文化放送で始まった『ミスDJ』だった。月曜から金曜まで、深夜0時30分から3時までの生放送。曜日替わりのパーソナリティが全員、女子大生という触れ込みだった。当時、中高生から絶大な支持を得て、中でも水曜担当(後に金曜に移動)の成城大の千倉真理と、火曜担当の青学の川島なお美が人気を二分した。

続いて1982年、一組の女子大生デュオが彗星のごとく現れる。名古屋の椙山(すぎやま)女学園大学2年に在学中の岡村孝子と加藤晴子による「あみん」は、第23回ポプコンでグランプリを獲得すると、同年、受賞曲の「待つわ」でデビュー。その年、シングル年間売上1位となるミリオンセラーを記録した。

極めつけは、1983年4月にフジテレビでスタートした土曜深夜の番組『オールナイトフジ』である。秋本奈緒美や鳥越マリら芸能人のMC陣と共に番組を盛り上げたのは、オーディションで選ばれた素人の女子大生たちだった。そのたどたどしい進行ぶりや素のリアクションが話題となり、時に女子大生ブームは頂点を迎える。彼女たちは “オールナイターズ” と呼ばれ、レコードもリリースした。

――ところが、1985年2月、同番組の特別版『オールナイトフジ女子高生スペシャル』がキッカケとなり、同年4月に『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)が始まると、世の関心は女子高生へシフト。あえなく、女子大生ブームは沈静化したのである。

そう、80年代前半をきらびやかに彩り、そして過ぎ去った女子大生ブーム――。何ゆえ、彼女たちは突如、スポットライトを浴びたのか。もちろん、予兆はあった。それは、一冊の週刊誌によってもたらされた。時に、1980年1月25日――『週刊朝日』の表紙を飾った一人の女性が、その歴史的な扉を開けたのである。彼女の名は宮崎美子。熊本大学法学部3年に在学中の、ごく普通の女子大生だった。

篠山紀信が気に入った、宮崎美子の自然なスナップ

週刊朝日で、篠山紀信が表紙写真を担当するのは、1978年4月からである。当初は、女優や歌手が対象だった。第1号が竹下景子で、その後、山口百恵、原田美枝子、岸恵子、浅丘ルリ子、南沙織、松坂慶子、桃井かおり、坂東玉三郎、大竹しのぶ、薬師丸ひろ子、吉永小百合、夏目雅子ら、そうそうたる顔ぶれが続いた。全員女性である(ここ、サラリと流してね)。

しかし、1980年―― 突如、路線変更する。アタマ3週こそ女優や歌手らが続いたが、第4週の1月25日、先に述べた宮崎美子サンを皮切りに、いわゆる「女子大生モデルシリーズ」が始まる。被写体は素人の女子大生。前年10月に朝日新聞紙上で公募され、約1000人が応募し、写真選考と面接を経て最終的に10名が残った。

有名な話だが、他の応募者が写真館等で応募写真を撮影したのに対し、宮崎サンは当時付き合っていた医学部のカレに撮ってもらい、その自然なスナップを篠山紀信サンがいたく気に入り、書類選考の段階でシリーズ第1回のモデルに決まっていたとか。紀信サン曰く「ある種のイモっぽさ、飾らない自然美がよかった」。

教訓、書類選考に貼る写真は、他の応募者と差別化せよ、そして審査員が何を望んでいるのかを想像せよ――。

女子大生ブームの下地を作った宮崎美子 “原石” の魅力

今、改めて件の表紙写真を見ると、化粧っけのない笑顔に、いい意味であか抜けない服装(紀信サンがその意図でオーダーし、スタイリストが揃えたそう)が印象的。いわゆる “原石” の魅力だ。当時、この号が出ると巷で大評判になったのもうなずける。

スタートからいきなりハネたので、週刊朝日の女子大生モデルシリーズは、その後もコンスタントに続いた。そして着実に、来るべく女子大生ブームの下地を作ったのである。

おっと、宮崎美子物語はここで終わらない。表紙掲載の翌月、熊本にいる宮崎サンのもとへ、篠山紀信サンから直接連絡が入る。曰く「カメラのCMに出演してほしい。ロケ地はサイパン」と。春休み期間中でもあり、彼女はバイト気分で気軽に応じる。同世代の女性2人が参加するのも心強かった。だが―― このCMがのちに彼女の人生を大きく変えようとは、一体誰が想像しただろうか。

アラフィフなら誰もが思い浮かべるあの映像、ミノルタX-7のテレビCM

 いまのキミは ピカピカに光って
 あきれかえるほど ステキ
 ぼくの情熱うけとめて

そう、ミノルタ(現・コニカミノルタ)の一眼レフカメラ「X-7」のテレビCMである。誰もが口ずさめるCMソングは、作詞:糸井重里、作曲:鈴木慶一、歌:斉藤哲夫というプロフェッショナルの座組だ。実はこの曲、元々CMソングとして、この3行の詞のみが作られ、録音されたそう。それが、CMが評判になったものだから、急遽フルコーラスに仕立ててリリース。オリコン最高9位のスマッシュヒットを記録した。

パブロフの犬じゃないけど、この曲を聴くと、アラフィフ以上の人なら誰もがあの映像を思い浮かべるだろう。海辺の木陰で、周囲を気にしながらジーンズを脱ぐ女の子―― 宮崎美子サンだ。下には青の水着。そのボディは健康的で、はち切れんばかりだ。いわゆるモデルと違って、どこか親しみを覚える。なかなかジーンズが脱げないところもリアルである。

その後、バストショットになったところで、女の子はようやくカメラのフレームに気付く。ここまでの映像は全て、撮影者目線だったというオチ。その瞬間、はにかみながらも笑顔を見せる女の子。と思いきや、フッと真顔になったりして。カメラを持つ相手は恋人だろうか――。

宮崎美子フィーバー、触手を伸ばしたのはTBS

CMは大評判になり、宮崎美子サンも一躍ブレイクを果たした。モデルではなく、現役の女子大生、それも地方の熊本在住。その健康的な肢体と相まって、手の届くリアルさを求める80年代のお茶の間と、どこか彼女は相性がよかった。

世は、宮崎美子フィーバーに沸いた。そうなると、テレビの世界が人気者を放っておくわけがない。次に彼女に触手を伸ばしたのはTBSだった。同局伝統のドラマ枠『ポーラテレビ小説』のヒロインに起用したいという。同局の山泉脩プロデューサーは熊本まで日参し、彼女への説得を続けた。当初、戸惑っていた彼女も、次第にその熱意に心が傾き始める。

1980年夏、TBS「ポーラテレビ小説」の10月期の新ヒロインが発表されるや、世間は驚愕した。新ドラマ『元気です!』の主人公・伊沢あやを演じるのは、新人・宮崎美子――。同局には200社もの取材が殺到し、翌日のスポーツ紙の中には「TBSが美子をさらった」と書くところもあった。

新人女優の登竜門、ポーラテレビ小説のヒロインに

ドラマ未経験の女子大生が、いきなり半年間もの連続ドラマでヒロインを演じる―― 常識で考えれば、ありえない話にも聞こえるが、実は同枠、元々NHKの朝ドラと同じく、新人女優の登竜門だったんですね。だから、元よりヒロインに過度な演技力は求められず、宮崎サンにとっては、多少はやりやすい環境だった。幸い、ドラマは好評を博し、宮崎サンは半年間もの長丁場を乗り切った。

当初、ドラマが終われば、彼女は熊本に帰り、普通に就職するつもりだった。しかし、ドラマが終盤に向かうに連れ、次第に宮崎サンの中に“もっと演技をしたい”という欲が芽生え始める。せっかく乗り掛かった舟、もう少し航海してもいいのではないか。とりあえず、どこまで行けるか、自分を試してみよう――。

女子大生・宮崎美子が、女優・宮崎美子として生きていく決意をしたのは、その頃だと言われる。

カタリベ: 指南役

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