50年ぶりの祖国で浦島太郎(10)=サンパウロ市 広橋勝造=50年ぶりの幼友達との話題は?

赤ちょうちんが並ぶ飲み屋街(はりまごうさん、写真ACより)

赤ちょうちんが並ぶ飲み屋街(はりまごうさん、写真ACより)

 ふるさと博多で、近所の幼友達が4人集まってくれた。誰かがたまたま俺の実家に用事で訪ね、俺の訪日を知ったらしい。
 半世紀前の面影がある奴は一人もいなかった。近所にあるバーに集まった。外見は、ブラジルの怪しい店に匹敵するようなケバケバしさがあったが、中の雰囲気はいたって真面目な所だった。
 一人が行き付けのバーだった様で、特別にあしらってもらったようだ。お互いの長い空白を埋めるのに一時間以上掛ったように思う。
 仕方がない、50年以上の空白時間だったんだから。だが、そのうちの一人は、博多に住んでいたが一度も会っていなかったそうだ。
 お酒も入って、一時間が過ぎたころからお互い打ち解けてきた。だが、誰からも余り、俺の思い出は出なかった。
 何時も一緒に遊んでいたのに、俺の事を余り語らない。俺の話になると、なぜか俺の親父の事になった。
 だいたい話の内容は、「家に遊び(忍び)込んで水飴を指で盗んでなめた」「ヨモギを採って来たら、お前の親父がヨモギ餅を皆に作ってくれた。旨かったー」とか食い物の話ばかりだった。
 俺の家は「ようかん」「カステラ」「運動会用の紅白まんじゅう」やらを作る和菓子屋だった。あの頃の俺達はいつも空腹で食べる事しか考えていなかった。
 終戦後のドサクサ時代の幼友達だ。だが今は、県の教育委員会の何々会長を何年続けていると云う者もいた。
 あの頃、俺達はみんなスイカ泥棒やカキ泥棒、モモ泥棒をしたものだった。それが県の教育委員会の何々会長サマになっている。
 一番美味しかったのは女学校で育てていたイチゴだった。夢のような食べ物だった。
 「夢のような食べ物」で思い出したのが、米軍基地の塀の上から、クリスマス・イブにバラまかれたお菓子だった。今で云うチョコレートだ。当時は皆で奪い合ったものだ。
 そんな話で盛り上がって、バーの予約時間が切れ解散になった。結局、あの頃の「空腹」が全員懐かしかったようだ。

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