コロナ対策で「飲食店規制」、なぜ可能なのか 「営業の自由」を考える

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、政府は休業や営業時間短縮といった飲食店への規制を対策の中心に据えてきました。会食の場が流行の要因になっていると考えたためです。憲法は営業の自由を保障しているのに、なぜ規制できるのでしょうか。憲法を専門にしている東京都立大の山羽祥貴(やまば・よしき)准教授に聞きました。(共同通信=松井健太郎)

まん延防止等重点措置の対象に愛知県が追加されたことに伴い、名古屋市内の飲食店に張られた営業時間変更のお知らせ=8月8日午後

 ▽公共の福祉

 【憲法22条第1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転および職業選択の自由を有する】

 Q 営業の自由とは。

 A 憲法22条は、どんな仕事に就くのかを自分で決められる「職業選択の自由」を保障しています。職業は生活費を稼ぐだけでなく社会の中で個性を発揮する機会でもあり、個々人にとって大きな意味を持っています。過去には身分によって職業を選べない時代がありましたが、次第に人権として確立しました。今では、職業を選ぶ自由があるなら実際に行う自由(営業の自由)もあるとの考え方が一般的です。

 Q だとしたら、飲食店への規制は営業の自由を侵害しているのでは。

 A 22条には「公共の福祉に反しない限り」という条件が付いています。公共の福祉とは社会全体の利益のことで、人権が互いに衝突する場合などに調和を図るための考え方です。工場の周辺に住む人の健康を守るため有害物質の排出を規制する、といった例が分かりやすいでしょう。もちろん、公共の福祉のためであればいくら規制をしてもよいというわけではなく、行き過ぎた規制をすれば憲法違反となり得ます。

 Q お酒の提供を禁止するなど、どこまで感染抑止効果があるのかはっきりしない規制もあります。科学的な根拠が不明確な対策は「行き過ぎた規制」になりませんか。

 A コロナ禍では、どのような行為がどこまで危険なのかがはっきりしないことも多く、個々の対策の科学的有効性に不確かな点が残るのはある程度避けられません。もし全ての対策に厳密な「エビデンス」を求めるなら、健康被害をもたらすウイルスが流行しているのに何もできないことになりかねません。

4度目の緊急事態宣言が発令され、閑散とする福岡市の繁華街・中洲=8月20日夕

 ▽法の下の平等

 Q だからといって、飲食店ばかりが負担を強いられていいのでしょうか。

 A まずは状況をよく整理する必要があります。そもそも飲食店を規制の中心にするのが適切かどうかは、科学的根拠の有無だけで判断できません。オフィスや学校、家庭など、場所に関係なくあらゆる人との接触機会にリスクがある以上、感染拡大を防ぐための手段は飲食店の営業規制以外にもさまざまなものが考えられます。

 複数人での会食に相対的に高いリスクが認められるとしても、それは飲食店に負担を集中させることを正当化する理由にはなりません。これまでの対策の在り方には、営業の自由だけでなく憲法14条が定める「法の下の平等」に照らしても問題があります。

 【憲法14条第1項 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない】

 Q そうするとやはり、飲食店の営業規制は憲法に反するように感じます。裁判を起こせば勝訴できるのでは。

 A 必ずしもそうとは言い切れません。というのも、日本のこれまでのコロナ対策はロックダウン(都市封鎖)のような全面的な行動制限によって感染を抑え込もうとするのではなく、ほどほどの規制によって、ほどほどの感染規模にとどめることを目標としてきました。このような方針の下で、誰にどれくらいの負担を課せば「平等」といえるのかについて一義的な答えはありません。少なくとも、裁判所が適切な規制の在り方を見定めることは非常に困難です。

 Q だとすれば、飲食店の経営者や従業員の権利はどうなるのでしょうか。憲法が営業の自由や法の下の平等を保障している意味が失われませんか。

 A 私たちの大切な人権を実現する方法は裁判に限られません。人々の健康や命を守るための政策を決める段階で、一部の人の権利が不当に踏みにじられることのないよう、国民を代表する政治家が議論を尽くすのが本来の在り方です。

 その際に重要なのは、感染抑止のための戦略に関する多様な選択肢が専門家によって示され、その上で、社会の中のどのような価値を重んじるのかを踏まえた政治決定がなされることです。

 こうした科学と政治の問題が十分に切り分けられないまま、曖昧に「飲食店が急所」だと言われ続けてきました。説明責任を果たさない政府も問題ですが、多様な選択肢を示してこなかった助言組織の専門家にも責任があります。

鹿児島市の繁華街「天文館」のラーメン店で店内を消毒する従業員=8月21日午後

 ▽集会や結社の自由

 Q それでは、裁判を通じてできることはあまりないということでしょうか。

 A そういうわけではありません。規制が法律の定める手続きに従っているか、脱法的な権力行使がないかを審査するのは裁判所の重要な仕事です。規制の内容についても、そこから生じる権利侵害が期待される感染抑止効果と比べてあまりに重大である場合は、やはり憲法違反になり得ます。例えば酒類提供の停止の場合、お店の業態によっては実質的には休業になり、営業の自由に対する極めて重い制約であることを考慮しなければなりません。

 また憲法21条は、人と人のつながりを尊重するため集会や結社の自由も保障しています。特に飲酒を伴う会食は「不要不急」と思われがちですが、家庭の外で人間関係をつくる場として定着してきた事実を重んじる必要があります。

 【憲法21条第1項 集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する】

 このほか、飲食店の営業規制自体が合憲だとしても、それによって生じた損失を国家は補償しなければならないと訴える道もあります。

菅首相の退陣意向表明を伝えるテレビを見る飲食店の店主=9月3日夕、東京・新橋

 ▽正当な補償

 Q コロナ禍の当初は、感染拡大防止のための営業規制には憲法上の補償は不要だという意見も聞かれました。どう考えるべきでしょうか。

 【憲法29条第3項 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる】

 A 例えば空港建設の予定地を法律に基づいて収用する場合、社会全体の利益を実現するために一部の人の権利を犠牲にするので、公平の観点から補償の義務があるとされています。

 一方、有害物質を排出する工場の操業を禁止しても、補償は不要だと考えられています。他人を危険にさらす行為を控えることは社会生活を送る上で当然の義務だからです。コロナ禍の飲食店規制に対する補償を不要とする見解は、感染抑止のための制約をこれと同様に捉えていますが、全く状況が違います。

 先ほども述べたように、あらゆる人との接触機会にリスクがある以上、誰もが生活の中で多かれ少なかれ感染拡大につながる行為をしています。どんな行為をどこまで我慢しなければならないのかは、単に危険の有無によってのみ決まるわけではありません。安全を確保するため社会活動のどの部分を抑制するのかについての政治的な判断が介在しています。

 別の言い方をすると、飲食店の規制で感染拡大が抑えられ、私たちが安全に生活することができたのならば、その日常は飲食店の経営者や働く人の犠牲の上に成り立っていたことになります。国家が補償することが公平にかなうと言えます。

 憲法学や行政法学の伝統的な議論の枠組みは、コロナ禍のようにあらゆる社会活動に健康被害のリスクが伴い、国家の介入が絶えず必要となる事態を想定してでき上がってきたものではありません。教科書に書いてあることをそのまま当てはめても、必ずしも正しい結論が得られるとは限らないことに注意が必要です。

緊急事態宣言が延長期間に入った東京・渋谷のスクランブル交差点を行き交うマスク姿の人たち=9月13日夕

 Q 自治体から協力金が支給されていますが、それでは不十分なのですか。

 A 協力金は呼び掛けに応じてくれた事業者に政策的に支給されているもので、規制によって生じた損失を補塡(ほてん)するものではありません。ただ現状では何をもって「正当な補償」と言うのか、という問題もあります。

 感染拡大を防ぐために社会活動を抑制しなければならないという状況の下では、誰もが何かしらの負担を引き受けなければならないことも確かです。飲食店についても、規制がなかったときと全く同じ営業上の利益が確保されるべきだと言うのは難しいでしょう。

 そうすると、たとえ協力金の名目だったとしても、経営維持のために十分な額が支給されるなら憲法上の要請を満たすという考え方はあり得ます。逆に言うと、あまりに低額だったり支払いが遅れたりする場合には違憲の疑いが生じます。

 ×  ×

 やまば・よしき 東京都立大学准教授(憲法学)。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程を経て現職。法律時報2021年5、6月号に「『密』への権利」を執筆。

© 一般社団法人共同通信社