なぜヤクルト雄平は打者転向で大成できた? 引退会見で明かした“小さな成功体験”

引退会見を行ったヤクルト・雄平(右はマスコットのつば九郎)【写真:宮脇広久】

「野手転向も引退も、僕の中では同じ新しいスタート」

今季限りで現役引退を表明したヤクルトの雄平(本名・高井雄平)外野手が5日、都内で記者会見を行った。2002年ドラフト1位で東北高から投手として入団し、通算144試合登板、18勝19敗1セーブ17ホールドの実績を残した後、打者に転向してスラッガーとして猛打を振るった。後進に勇気を与える異例のコンバートは、なぜ成功したのだろうか。

「引退の決意を最初に伝えた相手は、妻です。野手転向の時にも、妻は『新しいスタートだよ』と背中を押してくれました。僕の中では、野手転向も引退も、同じような境遇です」。来季以降の身の振り方は未定だが、投手から野手に転向するのも、プロ野球選手から別の仕事に変わるのも、雄平にとっては大きな違いはない。逆に言えば、野手転向はそれほど重大な決断だった。

東北高時代は最速151キロを誇り、高校ナンバーワン左腕といわれた。高卒1年目でいきなり27試合登板、5勝6敗、防御率5.02をマークしたが、その後は制球難で伸び悩む。首脳陣の勧めもあって、プロ7年目の2009年の秋季キャンプから、25歳にして野手転向を決断。まだプロ球界に「二刀流」という概念はない時代だった。「本当の事を言うと、当初はレギュラーになれるとは思っていなかった」と明かす。

自他ともに認める「不器用で、コツのようなものを簡単には見つけられないタイプ」。それでも、徹底したウエートトレーニングでマッチョな体を作り上げ、愚直にバットを振り込んだ。「練習は目一杯やりました。逆にちょっとやりすぎて故障し、反省したこともあった」と振り返る。

「投手としてのラスト2年間(2008、09年)は、1軍では1試合ずつしか投げられなくて苦しかった。野手に転向して、ヒットを打てたり、いい守備ができたり、そんなちょっとした成功体験がうれしくて、野球がすごく楽しくなりました」という実感が毎日を支えた。

「投手は投げるだけだが、野手は走・攻・守どれか1つで生き残れる」

2014年にはリーグ6位の打率.316、23本塁打、90打点をマークし、外野手としてベストナインに輝く。翌2015年には、10月2日の阪神戦(神宮)で1-1の同点で迎えた延長11回にサヨナラ打を放ち、この瞬間にチームにとって14年ぶりのリーグ優勝を決めた。2018年にもキャリアハイの打率.318(リーグ7位)を残している。時には明らかなボールでも打ち返す、豪快さが魅力だった。

投手として1軍デビュー後、打者へ転向して成功した例は、近年では石井琢朗氏(現巨人3軍野手コーチ)が代表的。横浜大洋(現DeNA)に投手として入団し、通算28試合、1勝4敗を記録したのちにプロ4年目・21歳で内野手に転向し、通算2432安打を積み重ねた。現役では、2006年ドラフト1位で西武に入団し、投手として通算41試合、1勝4敗1ホールド、6年目の12年の9月に外野手に転向してレギュラーとなった木村文紀(現日本ハム)くらいで、雄平の活躍は稀な例と言える。

「投手は概ね投げるだけだけれど、野手には走・攻・守の3つがある。どれか1つでもチームにとってプラスになれれば、プロとして生きていけるかもしれない」との思いから、走っては通算41盗塁、打っては881安打、守っても強肩で鳴らし、手を抜くところがなかった。家族の支え、明るくポジティブな人柄、猛練習を厭わない体力と根気、なりふり構わぬ姿勢が雄平を成功に導いた。

ヤクルト一筋19年目・37歳で引退も、しばらくはトレーニングを継続するという。「子どもの頃からずっと野球をやってきて、急にやらなくなるのは怖い。現役の体でいられるうちに試してみたいこともある」と語る。これは、あのイチロー氏が2019年3月の現役引退にあたって「多分、明日もトレーニングはしてますよ。それは変わらない。僕はじっとしていられないから」と吐露したことを彷彿とさせる。こんな“野球の虫”ぶりこそ、稀有な存在感で球史に名を刻むことができた最大要因かもしれない。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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