【高校野球】ドラフト待つ“高校生ナンバーワン捕手” 「しょうと」の名前に父が託した思い

県岐阜商・高木翔斗【写真:小西亮】

県岐阜商・高木の父は大垣商でプレーも甲子園の夢はかなわず

県岐阜商の高木翔斗捕手は、世代ナンバーワン捕手の呼び声も高い。強肩を武器に1年春からベンチ入り。打撃でも4番に座り、チームを甲子園出場に導いた。ドラフト候補にまで成長した要因の1つは父の存在。「しょうと」という名に託された夢の実現は、目の前に迫っている。【間淳】

物心ついた時から、野球は日常生活の一部だった。幼い頃の写真は巨人のユニホームを着ている。高木が生まれて初めて野球観戦したのは、生後11か月の時だった。巨人ファンの父と祖父に抱かれ東京ドームへ。幼少期は毎月のように岐阜から東京に向かい、巨人戦を観戦していた。

幼稚園の年長でバッティングセンターに行き、小学1年生で少年野球チームに入った。当時の監督に促されてブルペンで投手の球を受け、捕球する楽しさを知ったという。以来、捕手一筋だ。

「今の自分があるのは父のおかげです。子どもの頃、毎日厳しく教えてもらいました。家族をはじめ、周りの方々にもずっとサポートしてもらい、恵まれた環境で野球ができたことに感謝しています」

高木の父も高校球児だった。甲子園出場校でプロ野球選手も輩出している大垣商で投手や外野手を務めていた。夢は甲子園出場。だが、高校最後の夏はベンチから外れ、チームも準決勝で県岐阜商に敗れた。長男の名前に選んだのは「しょうと」。自身の夢を託し、二人三脚で歩むと決意した。

県岐阜商・高木翔斗【写真:間淳】

子どもの頃は父との二人三脚の練習が“日課”「ずっと支えてくれた」

自宅の駐車場には打撃練習用のネットを張った。学校やチームの練習が終わると、親子でティーバッティングをするのが日課だった。中学の長期休みはクロスバイクでサイクリングへ。往復100キロを走る時もあった。高木は、息子に負けじとペダルをこぐ父の姿に「負けず嫌いですね。今も毎日10キロのランニングをしていて、まだまだ息子に負けていられないという対抗心を感じます」と微笑む。

父のサポートを受けた高木は着実に力をつけた。「ポジションは関係なく、野球にちなんだ名前ということで翔斗(しょうと)になりました。ショートを守るのはフットワークを鍛える時くらいで、試合は捕手でしか出場したことがないです」。身長186センチ、体重90キロと恵まれた体に、遠投105メートルの強肩。「打てる捕手」として全国で知られる存在となった。

高木は甲子園出場とプロ野球選手の夢をかなえるため県岐阜商に進んだ。秀岳館高(熊本)を甲子園に導き、数々のプロ野球選手を育てている鍛治舎巧監督が母校に戻って指揮すると知ったからだった。そして、父に託された聖地に立つ夢をかなえた。

「父は自分をプロ野球選手にしようと、ずっと支えてくれました。プロに行かせるまでは親の責任と言っています。小さい頃からの夢だったプロ野球選手になって、感謝の気持ちを伝えたいです」

守備位置はショートではなかったが、世代ナンバーワン捕手と評されるドラフト候補の高木翔斗。2つ目の夢も手の届くところまできている。(間淳 / Jun Aida)

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