「空襲なんて怖くない」と歌った友も…那覇の街も青春も奪った 10.10空襲から77年

 旧那覇市を中心に米軍の大規模な空爆を受けた1944年の沖縄県の10.10空襲から、10日で77年となった。当時、西本町(現在の那覇市西)に住んでいた宮平義子さん(92)は空襲で消えた、モダンな街の様子を覚えている。空襲で同級生を失い、その後に移住した満州では父らを失った。 宮平さんの父は商船会社に勤めていた。宮平さんは弁当を届けながら那覇港の伝馬船に飛び乗って遊んだ。自宅近くには「平和館」という映画館があった。幼い頃は弁士にかわいがられ、ただで映画を見せてもらった。「(米国の女優)シャーリー・テンプルが好きだった。映画に出てくるふわふわのベッドがうらやましかった」

 43年に県立第二高等女学校へ進学した。「音楽が優秀な学校で、講堂にオルガンがずらりと並んでいた」。美術教員は画家の名渡山愛順氏。「厳しい先生」だったが、宮平さんは絵を描くのが好きだった。

 44年に入ると戦時色が濃くなり「勤労奉仕」に駆り出された。10.10空襲の前日は、がじゃんびらで砲台造りをした。軍の隊長は「これだけお膳立てをして、お客さん(米軍)が来ないと寂しいもんだ。来たらこてんぱんにしてやる」と強がった。それを聞いた同級生が「空襲なんて怖くない」と歌い始め、宮平さんらも合唱した。

 10月10日午前7時ごろ、空襲警報が鳴った。自宅にいた宮平さんは軒下の壕(ごう)に両親と避難。さらに上泉町(現在の那覇市泉崎)にある母の実家の壕に逃げた。壕内に爆風が入り込み、「心臓が締め付けられる」ような圧迫感で気絶した。目覚めて外に出ると、爆撃で周囲の家が消えていた。「後に『空襲なんて怖くない』と歌っていた同級生が空襲で亡くなったと知った。ショックだった」

 宮平さんの家族は45年1月に大分県に疎開し、5月に満州の勃利(ぼつり)に移住した。だが8月にソ連軍が満州に侵攻。宮平さん家族は山中を逃げる途中でソ連兵に捕まり、父は射殺された。おいとめいも栄養不足で命を落とした。46年に帰国し、50年に沖縄へ戻った。「父たちの骨もない。慰霊の日が来ると『今どこにいるんだろう』と思う」

 宮平さんは昨年、戦争体験を冊子にまとめて家族に配った。「戦争を知らない子どもたちに、こんなにむごいんだと伝えたい。二度とこういうことが起きないように」 (伊佐尚記)

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