戦前の日本最速列車 南満洲鉄道「特急『あじあ』号」と満鉄連京線

最高速度130km/h、表定速度84.2km/hを誇った特急「あじあ」号

1905年のポーツマス条約で譲渡された東清鉄道南満洲支線などを運営するため、翌年に設置された南満洲鉄道(しばしば「南満州鉄道」とも表記される)であるが、その本線とされたのは関東州の州都である大連市から北京への分かれ道である奉天(現:瀋陽)を通り清の長春府までを結ぶ路線であり、長春特別市が新京と改称された1932年には「連京線」と改称された。

 2年後の1934年に運転を開始した特急「あじあ」は、連京線全線を8時間半かけて走破する列車であったが、表定速度は82.5km/hを記録し、この時点で日本最速列車となった(以前の鉄道省最速列車は燕であったが、表定速度は70km/hにも達しなかった。電車を含めても阪和電気鉄道超特急の81.6km/hが最速であった。)。翌年、満洲国鉄京浜線に直通を開始し、1936年には12時間半で大連と哈爾浜(はるびん)を結ぶようになった。この時の連京線内での表定速度が84.2km/hであるが、戦後の電車特急「こだま」の当初のダイヤより速いばかりか、同じ標準軌で平坦な現在の中国鉄路瀋大線・京哈線の快速列車より速く(「あじあ」8時間20分に対して中国鉄路K5031列車(当該駅間最速の快速。大連行のみ更に速い特快が存在)は8時間32分。ただし停車駅は「あじあ」の方が2つ少ない)、いかに速かったかが分かる。

981号機

 「あじあ」を牽引するため設計された機関車は「パシナ」と呼ばれた。パシナはパシフィック型の7番目という意味であり、特に最後に作られた981号機は流線形のフォルムが人気を博した。

日本と大陸を結んだあじあ号

当時まだ数十名の乗客しか乗せられなかった旅客機による移動は一般的でなく、旅客輸送は依然として鉄道および船舶が担っていた。また国内での鉄道網も発達し、現在の在来線鉄道網の大枠は出来ている状態であったため、特に長距離輸送は大方鉄道が担っていた。

超特急「燕」

 当時から一大幹線であった東海道線も、1930年には超特急「燕」が登場、1934年に丹那トンネルが開通と高速化が進んでおり、東京から下関は特急「富士」が19時間で結んでいた。この「富士」は明治期に運行を開始した日本初の特急列車であり、当初から関釜連絡船(下関から釜山を7時間半で結ぶ)、更には釜山桟橋から朝鮮総督府鉄道の列車(後の急行「ひかり」、急行「興亜」。「ひかり」は奉天、新京、哈爾浜を経由し三棵樹まで、「興亜」は奉天、山海関を経由し北京まで運転)に接続して大規模なネットワークを構築していた。

 上述したポーツマス条約で譲渡された地域は関東州として日本の一部となったが、その中心都市である大連には福岡県の門司から大阪商船の連絡船が出ていた。こちらも、関門連絡船(下関から門司を15分で結ぶ)を介して下関で特急「富士」に接続するダイヤであった。この大阪商船に接続する列車として1934年に運転を開始したのが特急「あじあ」である。

 元々連京線の看板列車であった昼行の急行列車は1932年に「はと」と名付けられていたが、2年後に「あじあ」が走り出すとパシナが牽引するようになり、スピードアップが図られていった。また、1935年からは連絡船から「あじあ」に乗り換えられなかった乗客向けの救済列車の役割を担い、満鉄の消滅まで運転され続けた。

あじあ号の人気とそのわけ

内地には「燕」(東京~神戸)や「富士」(東京~下関)、朝鮮には「あかつき」(釜山埠頭~京城(現:ソウル))といった現代でも名の通る特急列車が走る中、「あじあ」はそれらを差し置いて人気を得ていたと言える。満洲国鉄京浜線の改軌が終わり哈爾浜に乗り入れた1年後には、小学校の国語の教科書に「『あじあ』に乗りて」という物語が掲載され(とても洗練された文章なのでぜひ読まれたい)、全国の小学生の知る列車となった。サービスもとても快適であったようで、当時アメリカにしか無かった全車両空調完備の編成を使用しており(現在でも新興国や途上国では冷房車は貴重であり、日本から譲渡した車両が有難がられる理由の一つでもある)、また系列会社であるヤマトホテルによる洋食を提供できる食堂車の併結、防音設計の導入、密閉型展望車の併結と最高品質を目指した事が伺える。さらには空調の導入によって窓を閉め切る事が出来、満州特有の砂塵を防ぐことが出来たのも好評であった。ちなみに、一等と二等の座席は回転クロスシートであったが、窓側(進行方向に垂直)を向く向きや窓側を向いた斜め45度で止める事も出来た。

 しかし、最高130km/hで走るため乗り心地は悪く、急行「はと」を選ぶ乗客も居たようである。130km/hと言えばJR西日本の新快速やつくばエクスプレスの最高速度であり、これを超えるのは新幹線を除けば京成の特急スカイライナーのみである。現代でもかなりスピード感を感じる速度であり、そこは当時の技術の粋を集めた「あじあ」といえど仕方なかったのだろう。

 また、特筆すべきこととしてコストの低さが挙げられる。1編成(機関車パシナを含めた7両)は当時の価格で50万円、今の10.5億円であったが、これは当時アメリカで運転されていた似た編成より遥かに安く、更に現代の新幹線800系(つばめ)6両編成でも1編成で18億円かかっている点からも、如何にコストを抑えていたかがよく分かる。

 ちなみに、芝未経験ながら芝のGⅠで優勝したことで有名なGⅠ馬「アジアエクスプレス」の由来にもなっている。

 最後に、「あじあ」の速さがよく分かる当時の時刻表を抜粋して掲載する。なお、連京線は全線が複線であったため交換待ちは存在しない。

 参考までに、「あじあ」の表定速度は現在の特急「かもめ」、快速「マリンライナー」と同程度、急行「はと」の表定速度(65.8km/h)は特急「はまかぜ」、総武・成田線通勤快速、特急「踊り子」と同程度である。

昭和17年(1942年)の連京線の下り時刻表(抜粋、一部他線区を含む)

【特急】

  • 「あじあ」大連900→1150大石橋1155→鞍山1243→1352奉天1358→1606四平1610→1730新京1740→徳恵1916→双城堡2140→2251哈爾浜

【急行】

  • 「はと」大連1000→(沙河口、金州、普蘭店、瓦房店、熊岳城、蓋平)→1340大石橋1346→(海城、湯崗子)→鞍山1449→(遼陽、蘇家屯)→1615奉天1621→(鉄嶺、開原)→1858四平1902→(公主嶺、南新京)→2040新京
  • 「ひかり」釜山(埠頭)1945…京城405…平壌837…1243安東1313→(鶏冠山、宮原、本渓湖、蘇家屯)→1842奉天1852→(鉄嶺、開原)→2133四平1902→(公主嶺)→2317新京2344→徳恵138→(三岔河)→双城堡455→648哈爾浜703→(浜江)→725三棵樹
  • 「のぞみ」釜山(埠頭)800…京城1658…平壌2205…230安東300→(五龍背、鳳凰城、鶏冠山、連山関、宮原、本渓湖、蘇家屯)→909奉天920→(鉄嶺、開原)→1212四平1218→(公主嶺)→1400新京
  • 「15列車」大連2100…055大石橋101…342奉天352…646四平652…834新京…1428哈爾浜…1504三棵樹
  • 「17列車」大連1500…1855大石橋1901…2140奉天2150…052四平058…240新京…855哈爾浜…936三棵樹
  • 「19列車」大連1635…2035大石橋2041…2321奉天2331…222四平228…410新京…1005哈爾浜…2046牡丹江(哈爾浜で切り離し・1040三棵樹着、三棵樹941発を哈爾浜で併結)
  • 「402列車」北京1240…天津1545…山海関2240…錦西117…707奉天725…1026四平1032…1223新京

【普通】

  • 大連~大石橋…5本、最速5時間22分
  • 大石橋~奉天…8本、最速3時間37分
  • 奉天~四平…9本、最速4時間15分
  • 四平~新京…7本、最速2時間35分

路線図(主要路線・駅のみ記載)

南満州鉄道路線図

掲載されている区間の紹介(線で結んだ区間は連京線から直通する列車が存在した区間である)

  • 赤:社線(満鉄の路線)
    • 連京線…大連~新京、旅順線…周水子~旅順、金城線…金州~城子疃、営口線…大石橋~営口、
    • 安奉線…安東~蘇家屯
  • 青:国線(満洲国鉄が保有し満鉄が運営していた路線)
    • 京浜線…新京~哈爾浜、奉山線…奉天~山海関、平斉線…四平~斉斉哈爾、斉北線…斉斉哈爾~北安、
    • 浜江線…哈爾浜~三棵樹、浜綏線…哈爾浜~牡丹江~綏芬河
  • 黒:朝鮮総督府鉄道、内地への航路
    • 京釜本線…京城~釜山埠頭、京義本線…京城~新義州(安東の対岸)
  • 緑:新線(昭和18年の鉄道総局廃止後に建設された路線)
    • 遼宮線…遼陽~宮原
  • 灰:華北交通(昭和20年4月より北支那交通団に改称)
    • 京山幹線…北京~山海関

出典・参考資料

【著者】横浜国立大学鉄道研究会

1958年に設立されてこの方、「鉄道」と「旅行」の両輪で活動。 日々の旅行以外にも大学祭における模型展示や会誌発行など、多彩に取り組む。

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